2024年X掲載、『舞鶴市史』年表を中心に
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1888年(明治21)10月1日
伊藤博文枢密院議長・西郷従道海軍大臣・仁礼景範海軍参謀本部長ら舞鶴に入港、海軍大臣・海軍参謀本部長ら数日間舞鶴湾を巡検する
この巡検の13年後の同月日、1901年(明治34)舞鶴鎮守府が開庁します。
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1963年(昭和38)10月2日
市議会、国立高等専門学校設置特別委員会及び近畿圏開発調査特別委員会設置
国立高等専門学校設置は1965年6月9日まで設置・審議されました。国立舞鶴工業高等専門学校は、同年4月26日に開校します。舞鶴高専の敷地は第3海軍火薬廠第2区で、軍転法による転換施設でした。
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1945年(昭和20)10月3日
連合国軍進駐に先だち米第六軍関係者相ついで来鶴
米第六軍は、総司令部のもとで全国を東西に分けた西部を担当し京都に司令部を置きました。9月26日に京都に進駐し、3日は京都から技術情報将校4人、12日神戸から11人、敦賀から6人と続きます
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1707年(宝永4)10月4日
大々地震起こる 少しあって、500目鉄砲天を打つごとく20ばかり鳴る この時、大坂では津波か数万人死ぬ 50日余昼夜とも小地震絶えず
「加佐郡旧語集」には、成生村ではこの地震により鰤・鱈・鱸がとれず、近年運上がなかったとあります。
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1910年(明治43)10月5日
四所村村会、部落有財産統一決議
明治29年、同40年の大水害のあと、復旧に努め、山林などの部落有財産の統一に力を入れました。部落(区・大字)、近世以来の旧村が所有する山林・原野などを無償で村に提供し、財政基盤の強化を図りました。
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1736年(元文元)10月6日
午ノ時、北風にて細波起こり、日本国中北向きの浜大いに損じる 由良村の船損失大、同村死者24人、夜子ノ刻まで風吹く
出雲・石見・隠岐の沿岸で5日夜半より翌日に西北風が烈しく、雷雨、海震いという高波災害が『出雲私史』に記録されます
鳥取藩の家老日記には、10月5日夜の暴風雨で鳥取城北門の壁が崩れたとあり(翌6日条)、山陰両県域が荒天の可能性は高い、とあります(倉恒康一「前近代出雲・石見・隠岐災害記事目録解題」『島根県古代文化センター研究論集』23、2020年)
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1945年(昭和20)10月7日
引揚第1船雲仙丸、釜山より舞鶴入港
雲仙丸は陸軍2100人を輸送し、16日釜山からの雲仙丸に陸軍1850人に加えて、一般邦人80人がはじめて引き揚げました。関係機関は、10月10日に舞鶴海軍復員収容部、その後、陸軍、一般邦人の部署が設置されます。
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1942年(昭和17)10月8日
舞鶴鎮守府、舞鶴市、東舞鶴市合併推進に乗り出す
戦局の緊迫化のなかでも、容易に進まなかった合併は、鎮守府の強い要請も加わり急速に進展しました。参謀長の経過報告によると、8日水島舞鶴市長を招き合併問題他の懇談を行っています。
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1961年(昭和36)10月9日
舞鶴市農業協同組合連合会、舞鶴農協合併調査委員会を結成
この委員会は、各組合長で構成され、合併案としては、17農協一本化案と、東地域7組合、西地域5組合、加佐地域5組合の3ブロック案がありました。
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1910年(明治43)10月10日
舞鶴海軍工廠で駆逐艦海風進水式(皇太子臨場)
駆逐艦海風は、タービンを主機とする国産初の一等駆逐艦です。排水量1150トン、速力33ノット、12糎砲2門、80粍砲5門、水雷発射管4門を備えていました。
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1945年(昭和20)10月11日
舞鶴市集団疎開学童引揚げ開始
8日から豪雨となり、9日国民学校も休校、国鉄宮津線も不通となりました。11日には曇り時々雨となり宮津線も開通したため引揚げを開始し、13日までにすべての引揚げを完了しました。
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1933年(昭和8)10月12日
舞鶴高等女学校校舎全面改築案、府会にて可決
明治40年4月郡立高等女学校が開校し、郡制の廃止に伴い大正12年1月郡立高等女学校から舞鶴高等女学校へ校名変更し府立へ移管されました。
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1937年(昭和12)10月13日
舞鶴町、国民精神総動員強調週間実施
19日まで続いた強調週間は、13日戊申詔書渙発日なので時局生活の日として遙拝黙祷、14日は出征軍人感謝日として慰問文や慰問袋を製作発送し、15日非常経済の日、16日銃後の護りの日と続きました。
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1942年(昭和17)10月14日
舞鶴海軍刑務所竣工式
舞鶴海軍刑務所は、昭和16年10月15日に設置され、戦後復員刑務所と呼ばれ、昭和21年4月1日東舞鶴刑務支所になります。舞鶴鎮守府軍法会議とともに市場にありました。
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1922年(大正11)10月15日
修養団加佐郡支部発会式
修養団は、海軍工廠内に作られた職工の労働組合にかわる全国的な道徳修養組織で、感謝と礼儀、孝行を道徳の基本とし講演会・講習会などを行いました。数百人の職工が加入し、戦後まで活動を続けました。
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1186年(文治2)10月16日
八条院女房弁局、大内郷吉囲荘の本家職を八条院に寄進、同荘の預所職に補任される
弁局は、後世他人からの侵害を防ぐために八条院(鳥羽天皇皇女八条院暲子)に寄進しました。古代加佐郡九郷の一つ大内郷の一部を荘園として吉囲荘と呼ばれました。
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1351年(観応2)10月17日
幕府、丹後守護仁木頼彰に対して、志楽荘朝来村における軍勢甲乙人等の濫妨を停止させる
4月1日、田辺郷の河端兵衛三郎が朝来村に入って濫妨し、10月の軍勢甲乙人の濫妨では、領主醍醐寺道雲上人雑掌に沙汰するよう足利義詮の御教書がでました。
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1867年(慶応3)10月18日
藩、京都表不容易の風聞につき、模様により出陣も計り難く、その節は軍役人夫を仰せつけるので、達し次第遅滞なく罷り出るよう申しつける
17日、幕府は在京10万石以下諸藩重臣を二条城に集め、大政奉還の勅許を達し、藩主の上京を命じています。
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1819年(文政2)10月19日
藩、札所普請のため銀札引換えを、この日より大橋西詰めの求心舎(心学道舎)において行う
藩札を管轄する札所は、享保4年(1719)に「大橋札場」として登場し、文政2年に求心舎に一時的に移転し改築されています。
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1947年(昭和22)10月20日
上安中学校、旧海軍工廠上安第二工員宿舎跡(字上安)へ移転
上安中学校は、青井・吉原・余内を校区として、5月に開校しましたが、校舎が不足し明倫小学校に併設されました。
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1945年(昭和20)10月21日
北陸第二上陸地支局(敦賀)、舞鶴重砲兵連隊に移動し山陰上陸地支局となり、外地派遣陸軍部隊復員業務開始
山陰上陸地支局は、海軍帰還部隊の舞鶴海軍復員収容部(10月10日設置)に続いて設置された、陸軍帰還部隊の復員業務を処理する機関でした
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1813年(文化10)10月
藩、やもめ・孤独・廃疾・篤疾で困窮者の名前・年齢、田畑・屋敷の有無、町方借宅で困窮者の名前・年齢・家内人数、職業の次第、村方潰れ人の田畑山林・居屋敷の有無、借財の次第を詳しく書き差し出すよう達する
藩による本格的な困窮者調査でした
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1488年(長享2)10月23日
桂林寺鐘(当時丹波郡縁城寺鐘、市指定文化財)にこの年銘がある
この鐘は、丹後中郡橋木の縁城寺にあり、その後、宝永7年(1710)版「田辺府誌」によると、細川幽斎が天正11年(1583)に寺領30石とともに桂林寺へ寄付したとあります。
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1852年(嘉永5)10月24日
藩、作物取荒しの儀、近頃時節柄宜しからざるため心得違いの者もあるので、去る天保8年の通り昼夜に限らず隠密を回して捕えさすが、村々でも五人組で吟味し、右様の者あれば役所へ訴え出るよう達する
天保8年8月の触は、飢饉時における措置でした
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1858年(安政5)10月25日
藩、今度北国筋湊々並びに海岸筋見分のため、公儀より役人お越しなされる旨を達する
この見分に関して、詳しくはこちらです。
上武恒介「安政5年海防御見分における大庄屋木船家の役割」
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1961年(昭和36)10月26日
中学校全国一斉学力調査実施、市内3中学校で混乱
以前とは違い、小学校、中学校、高校のすべての2学年、3学年を対象とする悉皆調査でした。教組側は、この調査が教育の国家統制につながるなど反対闘争を展開しました。
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1845年(弘化2)10月27日
藩、公事掛を止め、郡、寺社、町三奉行の手附調べと唱え、公事宿御免以前に戻るので、今後訴訟・願は奉行所宛とし、在方は庄屋、大庄屋、代官、町方は町役人、惣年寄をへて遅滞なく奉行所へ差し出す、願は滞る場合は沙汰に及ぶことを達します
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1313年(正和2)10月28日
河辺八幡神社(字河辺中)棟札、旧社名「岩津森大明神」を記す
河辺八幡神社は、中世志楽庄河辺村の鎮守であり、河辺中、西屋、室牛、河辺由里、河辺原、栃尾村の氏神でした。同じ「岩津森」とする、明徳5年(1394)の鰐口も現存しています。
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1922年(大正11)10月29日
新舞鶴港開港許可
この年、舞鶴鎮守府の要港部への格下げがあり、商港への転換を図ることで、国外を対象とした貿易商業港を建設し、町の繁栄をはかる方策を立てました。12月には敦賀線も開通することになり、海陸交通の要衝となりました。
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1933年(昭和8)10月30日
天皇、北陸地方陸軍大演習統監の帰途、舞鶴要港部、海軍機関学校、舞鶴重砲兵大隊、舞鶴要塞司令部へ臨幸
この時の教練天覧の碑は、元兵営内にありましたが、昭和38年3月に、南田辺に移転しました。
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1917年(大正6)10月31日
舞鶴海軍工廠、友愛会の解体を策して、御用団体「工友会」を組織
同年3月、海軍の兵器を造っていた室蘭の日本製鋼所で、賃金引き上げを要求し、友愛会が主導した騒動争議が発生しました。これに海軍当局が反応し「工友会」が結成されました。