2025年X掲載、『舞鶴市史』年表を中心に
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1951年(昭和26)1月1日
丹和銀行、商号を京都銀行と改称(市内に東・西舞鶴支店を置く)
一府県一行化の流れのなかで、丹和銀行は昭和16年両丹・宮津・丹後商工・丹後産業銀行が合併して成立しました。昭和25年京都府は、中小企業のための地元銀行育成を行っています。
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1869年(明治2)1月2日
藩主牧野誠成、小御所(京都)で明治天皇に拝謁
田辺藩は、宮津や福知山藩と異なり、前年の伏見の戦い新政府軍と戦うことはなく、戊辰戦争でも藩兵を出しませんでした。このとき、在京藩主の一人として正月の拝賀に参加し天皇から酒を拝領しています。
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1893年(明治26)1月4日
京都第百十一国立銀行舞鶴支店(舞鶴町字竹屋)開設
明治22年、舞鶴が第四鎮守府に指定され、軍港としての将来の発展が期待される中、舞鶴初の銀行として設立されました。日清戦争後の景気悪化により、明治31年3月に舞鶴支店は閉鎖されました。
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1816年(文化13)1月5日
藩、納屋孫八郎に桐実問屋職を申しつける。また、桐実運上は高50歩1とする旨(去年暮れに)達する
文化8年9月に堤防や河原を切り開き畑にすることが禁止されたが、すでに開墾されている切畑は難渋者のために用捨されました。その代わりに、村の桐実運上を高30歩1取り立てる政策でした。
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1889年(明治22)1月6日
海軍大臣、舞鶴湾最寄海軍用地買上案決定
海軍省の伊藤雋吉(旧田辺藩士、最終海軍中将)艦政局長を主務とした「舞鶴湾最寄海軍要地ノ件」が立案され、西郷海軍大臣が決裁しました。
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1941年(昭和16)1月7日
舞鶴市内自転車業者合同し舞鶴自転車組合営業所を設立
戦時統制により商業組合の統合が進むなか、府下で初めて合同を行いました。営業所では、新車の販売は市内の2カ所に限定され、いままでの個人商店は一掃されました。
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1727年(享保12)1月8日
藩、これより先、家督分けを堅く禁じると申し渡す、この日、川口中組初寄合にて大庄屋より申達
正徳6年(1716)閏2月20日在家の家督分けや家分けを禁止しています。同様な触として安永4年(1775)田畑の分割である高分けや別宅を出願制としましたが、遵守されないので文化12年(1815)再度触れられました。
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1926年(大正15)1月10日
新舞鶴商業銀行設立(佐治銀行新舞鶴町移転改称)
佐治銀行は明治20年12月、兵庫県氷上郡佐治(現丹波市)で資本金2万5000円をもって創業。明治39年12月には新舞鶴支店を開設しました。
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1958年(昭和33)1月11日
北吸スキー場開設
このスキー場は初・中級者向けで、昭和55年1月には市営岡安スキー場も開設されました。また、北吸には広さ1000坪の軍需部スキー場が存在し、昭和21年の軍用土地一時使用申請決定表にもその名が記されています。
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1678年(延宝6)1月12日
藩、久田美村山にて狩りを催す
藩が管理する山は立山と呼ばれ、狩も行われました。領内の村高や貢租に関する資料「土目録」によると、久田美村には藩管理の立藪として川くこ、山藪、はし前、はし前山藪、薬師山藪など6カ所が記録されています。
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1954年(昭和29)1月13日
和田沖爆発事故による爆死者合同法要施行
この事故は、昭和20年11月13日に発生、進駐軍に雇用された作業員が、西港の和田沖で爆弾の投棄作業を行っていた際、信管が残っていた爆弾が爆発。これにより33人死亡、12人重軽傷の大惨事となりました。
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1947年(昭和22)1月14日
農地委員連合会開催
昭和20年の第一次農地改革法では地主制が残存したため、政府は昭和21年10月に第二次農地改革法を可決。この改革では市町村農地委員会を選挙で選出し、小作5人、地主3人、自作2人の計10人で発足し、業務を直接担当しました。
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1957年(昭和32)1月15日
成人式、市主催となる
成人式の発祥地は埼玉県蕨市とされています。昭和23年に祝日法に基づき1月15日が「成人の日」と定められました。舞鶴市では昭和24年から、公民館、婦人会、青年団の共催で成人式が始まりました。
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1884年(明治17)1月16日
松尾寺(松尾村)堂宇など焼失
この時期の松尾寺住職・懸空は名高い書家でした。字和田の農家出身で、明治9年に住職となり、以後37年間務めました。懸空は明治22年に庫裡と廻廊を復元し、さらに明治41年から方丈を再建しました。
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1591年(天正19)閏1月17日
忠興、代官の服務上における労働、資材徴発、諸貢納、貸米、斬捨、産物売買、飯米、切米支給、斗桝使用などについての規制を記した定書を代官中へ下す
産物売買は、丹後産の真綿や生糸を京都へ送り、そこで売りさばく形で行われていました。
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1815年(文化12)1月18日
倉谷村・万願寺村溜池普請、両村所属池之内組懸りとして、同組大庄屋、その人足2000人を組内諸村に割りつける
組が人足を出した普請には、文化9年8月の今田村工事で500人、文化11年1月の倉谷村大泉寺前溜池の土手置き上げ工事で1000人と続きます。
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1849年(嘉永2)1月19日
藩、先年より古河多膳、宮沢伴太夫に白焔硝製法を試みさせ出来がよいので藩の手当囲いの他産物にもなるので、百姓が製法の伝授を得て副業として稼ぐよう達する
この後、文久4年(1864)2月福来村百姓2人が軍用白焔硝の製造を指示されています。
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1868年(慶応4)1月20日
山陰鎮撫使総督名代、田辺城に入る
山陰鎮撫使は18日に田辺へ入り、翌19日には舟遊びを楽しみました。この際の名代は、長州藩兵隊長で参謀の小笠原美濃介であり、薩摩藩隊長の川南藤右衛門を伴って城内に入りました。
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1964年(昭和39)1月21日
東、西消防署、救急隊設置
消防隊の設置は、前年4月15日の消防法改正により救急業務が法的に位置づけられたことが背景にあります。特に人口規模が大きな自治体では、救急業務の実施が義務化されました。
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1905年(明治38)1月22日
舞鶴町青年会結成
内務省は同年9月に地方青年団体の向上発達、文部省も12月に青年団の設置に関する通達を出しました。当時の会員は250人で、舞鶴町の発展促進を目的としました。大正4年には満16歳〜25歳までの青年で、各支部を設置しました。
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1950年(昭和25)1月23日
GHQ近畿民事部長、24年産米供出完納の舞鶴市を表彰
戦後、アジア各地からのコメの輸入が途絶えた後、食糧危機が起こりました。舞鶴市の配給米は年間6万石必要でしたが、その92%を市外からの移入に頼っていました。そのため昭和21年頃から遅配・欠配が増加します。
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1720年(享保5)1月24日
未ノ時大地震起こる 夜亥ノ時大雷電あり
この地震は、京都周辺では確認されず。日光の「御番所日記」に「子刻前地震」と記されます。
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855年(斉衡2)1月25日
丹後国大虫神、従四位下を授けられる
大虫神は、式内大虫神社で、農作物に被害を与える害虫を神の仕業と考え祭神とし、麻呂子親王ゆかりの神像を祀りました。麻呂子親王は、用明天皇の息子で、多祢寺を創立したといわれています。
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1882年(明治15)1月26日
舞鶴に立憲政党派出委員小室信介らを招き懇親会、1月27日学術演説会を開く
小室は天橋義塾社員らとともに懇親会に参加し、会衆は260名を超えました。また演説会には700名もの聴衆が集結。與謝郡と加佐郡の団結と連合が約束される場となりました。
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1927年(昭和2)1月27日
帝国水産会、第6回総会において加佐郡提案の「鰛油漬缶詰製造事業保護」を可決
日本における鰛油漬缶詰は、明治11年松方正義がフランスより製造機械を導入し、翌年5月に千葉県の銚子に設置し、製造したのが最初といわれています(『新日本史』)。
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1873年(明治6)1月28日
宮津支庁、第14大区の醤油醸造者に対し課税を示達
2月5日までに上納するよう指示があり、丹後国の平均的な一石あたりの売上を金8両永183文3分と定め、10両あたり200文を税金として課しました。また、鑑札料として1両1分が別途徴収されました。
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1958年(昭和33)1月29日
舞鶴港対岸貿易促進協議会設置
この協議会は、舞鶴港と対岸諸港との定期航路の実現や、港の発展と府の産業振興に寄与することを目的としました。舞鶴市では、舞鶴港振興会や舞鶴貿易産業協会などを統合し、新たに舞鶴港振興会を発足させました。
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1903年(明治36)1月31日
加佐郡製紙業組合設立
設立の前年、1月18日に加佐郡郡会議長木船衛門から川本正路郡長へ製紙業振興の建議書が提出されました。加佐郡の製紙業は農家の副業として増産が進んでいましたが、原料のほとんどが他郡へ販売されている状況にありました。
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1814年(文化11)1月
藩、百姓全体の心得として、農業を専らに心掛けず、不作を言い立てて御介抱を願い出ても、御救い下さる金銭米穀には限りがあって力とはならない
田辺藩では、不作時には御介抱として高内引きを操作していました。
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1820年(文政3)1月
藩、各町年寄に対して社倉を設け、米穀を貯蔵し非常の場合に備えるよう命じる
藩は、建設費用として米100俵と材木や作料相当の米を下げ渡しました。不足分は、町役人が120匁を掛けて18人講を立てました。貯穀は身上相応の者が御蔵米を買い取っています。
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1811年(文化8)1月
藩、近ごろ他国参詣者が増加しているが、これは領内の神仏を疎むことになるし、無益の財宝を費やし父母への孝養を薄くするとして禁止
また、諸国の社僧や社人による勧化・寄進の募集も規制し、今後は伊勢・河守御師の御免勧化以外を禁止しました。