3月 まるまる舞鶴 今日は何の日(2)

2025年X掲載、『舞鶴市史』年表を中心に


1903年(明治36)3月1日

舞鶴幼稚園舎竣工

明治17年に明倫小学校内に設置された幼稚保育科は、明治26年舞鶴幼稚園と改称し独立しました。明治34年1月には明倫校と幼稚園の建築費支出が決定し、明治35年9月に明倫校の落成式が行われ、11月から園舎の建築工事が始まりました。

1869年(明治2)3月2日

藩主牧野誠成、版籍奉還の上表を提出

版籍奉還は、1月21日に薩長土肥4藩から始まり、福知山、綾部、山家もすでに提出していました。誠成の上表は他藩主に比べ簡潔で形式的なもので、その3日後に誠成は亡くなりました。

1953年(昭和28)3月3日

第18回近畿市議会議長会定期総会開催(西公会堂)

会長の舞鶴市議会議長をはじめ、45市の議長ら200人が出席し、地方財政の確立・強化に関する要望を可決しました。現在も近畿市議会議長会は継承され、111市が加盟しています。

1345年(康永4)3月4日

左衛門尉某、八幡宮朔弊祭礼のため、田辺郷八田村のうち2反を寄進する

この八幡宮は、桂林寺の前身・洞林寺の境内鎮守として、嘉禎元年(1235年)に創建されました。創建から110年後には、八幡宮の毎月1日の朔弊祭礼のために寄進が行われました。

1733年(享保18)3月5日

辰ノ刻、大浦・志楽・祖母谷・池之内・中筋・川口下組内93か村の百姓3000余人、大内橋下の安久川原に集合、魚屋町堀際まで行進して座り込む。村々の願書(定免下げ、米・銀札拝借、中間給米上納免除)は、大庄屋より代官に提出

いわゆる享保一揆です

1931年(昭和6)3月6日

舞鶴共立会、軍縮整理反対総会開催

舞鶴共立会は、海軍工廠の労働者組合として、大正13年に友愛会や工場談話会に代わって創立されました。3月3日に発表された海軍省の解雇概数は、全国で8900人、舞鶴では670人にのぼりました。

1926年(大正15)3月7日

加佐郡木材工組合創立総会開催(舞鶴町公会堂)

大正末期、全国的に労働組合が分裂する中、京都は左右派の対立が激しい地域でした。木材工は組織力が弱いとされ、特に舞鶴は木材労働者と仲仕が各200人おり、組織化の条件があると考えられていました

1946年(昭和21)3月8日

舞鶴引揚援護局、平海兵団跡に移転

引揚業務は海軍・陸軍・京都府の三機関が担当していましたが、東西10数キロに分散し不便でした。そこでまず共同事務所を設置し、昭和21年2月に厚生省舞鶴地方引揚援護局が開設され、業務が集約されました。

1945年(昭和20)3月9日

府、新舞鶴、三笠、倉梯、中舞鶴、明倫、吉原、余内、中筋国民学校児童の学童疎開を指示

京都市・舞鶴市が疎開指定地に加えられ、学童疎開の実施が決まりました。11日に保護者会で説明され、17日には熊野郡上佐濃村と田村が疎開地に決まりました

1923年(大正12)3月10日

郡参事会、加佐郡道路線全部を町村道路線と認可

2月28日に審議された郡有財産処分の一環として、郡道が廃止され、府知事の認可を受けて町村道路線となりました。9日には、郡道のほか、高等女学校、養蚕学校、郡会議場の府への寄付も公示されました

1726年(享保11)3月11日

桑飼上村にて3月17日まで牛市

享保16年8月10日、西方寺村で翌年3月17日まで午市が開催されました。藩の奨励により、文化10年には泉源寺村市場で牛市の開催が許可されました。元禄10年に1363疋だった牛は、安政6年には1790疋に増加しています。

1343年(康永2)3月12日

丹波守護仁木頼彰、丹波国氷上郡の久下頼直を加佐郡河守郷の代官職に補任する

久下氏は、承久の乱後に丹波国へ新補地頭として到来し、足利尊氏が丹波篠村で挙兵して以来の土豪であり、北朝方として各地を転戦したことによる恩賞の可能性があります

1778年(安永7)3月13日

藩、藩主の寺社奉行在任中は操り芝居興行は願いにより許すが、相撲・富興行は相成らない旨を達する

5代藩主牧野惟成は安永6年9月に寺社奉行加役に就任しました。3代藩主牧野英成も享保3年(1718)8月に同職に就き、その後、京都所司代へ進みました

1962年(昭和37)3月14日

舞鶴港内巡視艇みずなぎ進水式

舞鶴海上保安部は、昭和23年の海上保安庁法により設立され、当初は職員72名、旧海軍の駆逐特務艇「ひよどり」「かわせみ」の2隻を巡視艇として運用していました。​現在、同保安部には7隻の巡視船艇が所属しています。

1924年(大正13)3月15日

横須賀、佐世保、舞鶴、呉などの海軍工廠の組合、海軍労働組合連盟結成

舞鶴の共立会は、横須賀の工友会、呉の海工会、佐世保の労愛会とまとまり海軍労働組合連盟(略称海連)を結成しました。

1891年(明治24)3月16日

舞鶴郵便取扱所、舞鶴郵便電信局と改称

明治5年に舞鶴・新町に開設された舞鶴郵便取扱所は、同8年に舞鶴郵便局と改称し、同18年に竹屋へ移転しました。同24年電信業務を扱うこととなり舞鶴郵便電信局と改称、同37年に平野屋に局舎が移転しました

1795年(寛政7)3月17日

信濃善光寺如来巡行、若狭より田辺浄土寺に入る、18~22日同寺にて開帳

この開帳の賽銭は、銀札3貫697匁1分、銭423貫600文にのぼる膨大な金額でした。1745年の交換比率で計算すると約157両となり、多くの人々が参詣していたことがうかがえます

1595年(文禄4)3月18日

忠興、瑞光寺庭において能興行、番組は式三番、志賀、田村ほか

瑞光寺の開山・明誓は、細川幽斎の四男・茶知丸の師として若狭から招かれ、文禄元年3月に寺地を付与されました。同4年6月には、能の「養老」「清経」「楊貴妃」が演じられました。

1950年(昭和25)3月19日

旧軍港市転換法案促進市民大会開催(市内3か所)

前日、参議院に法案が上程されたことを受け、19日に白糸中学校、中公民館、西公会堂で大会が開催されました。大会で決議された宣言文は、市民大会の名で吉田茂首相、衆参両院議長宛に打電されました

1786年(天明6)3月20日

円隆寺本堂再建(府指定文化財)

円隆寺の伽藍は、享保17年(1732)の大火後に再建されました。鎮守社は元文2年(1737)、多宝塔は宝暦元年(1751)、総門は宝暦3年、鐘楼は宝暦10年に建築され、鎮守社以外は林田姓の大工が担当しています。

1854年(嘉永7)3月21日

藩、異国船渡来につき非常手当御用並びに勝手改正の儀在町へ頼んだところ、在方4000両、町方1000両ずつ10か年の間調達仕るべき旨の庄屋中よりの口上書を、藩主が格別の心配骨折りの段満足に思し召した旨達する

嘉永6年の6000両に続く調達金でした。

1858年(安政5)3月22日

藩、村々より50年以来京都へ養子・引越を願い住居する者、身柄にかかわらず、薄縁であっても名前、所を取り調べ書付を差し出すよう達する

村から嫁・婿・養子に出る際は、村役人と旦那寺が発行する宗門送り状を持参する決まりでした。

1953年(昭和28)3月23日

中国引揚第1船興安丸(秦皇島)、高砂丸(上海)入港

中国からの引き揚げは、国民政府の協力により順調に進み、昭和21年6月には大部分が完了していました。その後、国共内戦で中断し、昭和28年3月に中国紅十字会との引揚協定により再開されました。

1923年(大正12)3月24日

5海軍区を3海軍区とし舞鶴、鎮海両軍港を要港とする旨公布

この勅令により舞鶴軍港の第4海軍区は廃止され、呉軍港の第2海軍区に編入されました。要港の境域は成生岬・黒岬・由良川の久田美・何鹿郡老富・福井県大飯郡青郷村などと定められました

1830年(文政13)3月25日

藩、在方の者の伊勢抜参りを停止する旨達する

文政13年のおかげ参りは、閏3月に阿波から始まり、8月末までに全国で約500万人が伊勢へ参詣する大流行となりました。田辺藩ではこの抜参りに対し、閏3月25日と4月3日に二度の禁令を出しています。

1846年(弘化3)3月26日

藩、田畑永代売買、質地、本物につき、貞享4、寛保元、文化8年の触を再達して、村役人は不埒の儀ないよう申し諭すべき旨を達する

藩は、幕府が禁止する田畑永代売買と紛らわしくならないことを条件に質入や本物返しによる土地売買を認めていました

1944年(昭和19)3月27日

舞鶴駅を西舞鶴駅と改称

翌4月、軍需物資輸送を最優先とするため貨物列車の本数が増加しました。その影響で旅行制限が実施され、一等車・寝台車・食堂車は全廃、急行列車も削減されました。

1955年(昭和30)3月28日

市簡易宿泊所条例廃止(舞鶴会館廃止)

市簡易宿泊所は、戦後に水交分社が大蔵省・内務省を経て舞鶴市に保管委託される形で設置されました。水交社は海軍士官の親睦や共済を目的としたクラブで、各軍港に設けられていました。

1381年(永徳元)3月29日

大和弥九良、足利義満御判御教書によって河守郷が返付される

大和氏は河守郷を所領としており、「丹後国諸庄郷保惣田数帳目録」によれば、その広さは約65町に及びます。同地に現存する清薗寺の領地とも関わりがあったことがうかがえます。

1949年(昭和24)3月30日

市議会、舞鶴港を第一種重要港湾へ昇格意見書を可決

2月、運輸省の告示により舞鶴港の名称が変更され、4月5日には第二種重要港湾「舞鶴港」となりました。1951年1月の港湾法改正で重要港湾に指定され、現在に至っています。

1948年(昭和23)3月31日

市立各青年学校廃止

舞鶴の青年学校は、明治44年に設立された丸八江村東雲村学校組合実業補習学校と中舞鶴町立工業補習学校が始まりです。昭和10年の青年学校令により青年学校となり、戦後は実業専修学校や実務女学校などへ改称されました。

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