3月 まるまる舞鶴 今日は何の日

2024年X掲載、『舞鶴市史』年表を中心に

1845年(弘化2)3月1日

藩、大庄屋中が日光代参御用金を差上げ金に願い出たことにつき、藩主が満足に思し召し在方一統へ酒肴を給される旨達する

藩主からの酒肴の下賜は、御用金の調達以外に、田辺入部100、150、200年記念などありました。

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1852年(嘉永5)3月2日

大丹生村にて火事起こる

田辺藩領内の火事は、焼失家屋数に応じて救済側の範囲が、村・大庄屋組・領内全体へと変動しました。

類焼5軒までは村内限り、10軒までは大庄屋組内限り、11軒以上は東西すべて領内の村が支援しました。

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1716年(正徳6)3月3日

松尾寺出火、本堂焼失する

本堂は、寛永7年(1630)焼失し、延宝4年(1676)再建されました。正徳の焼失では、京都の富田四平太が棟梁となり享保15年(1730)に再建されます。工数2700人、117両かかる見積もりでした。

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1733年(享保18)3月4日

村々庄屋中、惣方の相談漏れまじき旨の起請文に連判する

これは享保一揆の前の村々の起請文でした。これより前に各村では村内の起請文が作られ、小橋村では、誰が首謀者かわからないように円形状に署名し、順位を不明にする傘連判状が作られました。

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1943年(昭和18)3月6日

中舞鶴国民学校、満蒙開拓青少年義勇軍出発壮行式

1944年(昭和19)3月6日

満蒙開拓青少年義勇軍第4回京都中隊郷土出発

舞鶴市からの満蒙開拓青少年義勇軍は、昭和14年3月が最初となり、昭和20年2月2日に第5回と送り出されていきます。

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1930年(昭和5)3月7日

舞鶴町明倫小学校、少年消防隊設置

この少年消防隊は、奥丹震災、いわゆる北丹後地震の3周年にあたる日に創立されました。舞鶴町消防組から寄贈された手押しポンプにより放水試験を行っています。後に中舞鶴小学校、岡田下小学校でも結成されます。

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1927年(昭和2)3月8日

丹後大地震被災地に対し、舞鶴要港部、舞鶴重砲兵大隊はじめ加佐郡内各消防組、在郷軍人分会、青年団等現地に出動し救援

3月7日の北丹後地震は、死者2992人、負傷者3772人、家屋全壊6797戸の被害が発生しました。翌日舞鶴から救援に向かっています

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1802年(享和2)3月10日

藩、銀主古河屋教泰(若狭小浜)に15人扶持を送る

小浜の古河屋は回船業、問屋であり、享和元年2000両調達しました。その後、享和3年2000両、文化4年500両、5年から5000両調達を依頼され、文化4年12月14日知行高100石家中の待遇となりました。

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1808年(文化5)3月

藩、去年ロシア船蝦夷地で不埒のため、公儀より防備指示あり、ロシア人は日本の地理に詳しく京に近い丹後へ押し寄せて来るやもしれず、百姓も軍役に従うことを達する

この事件は、長崎に来航したレザノフが、部下に命じて樺太などを攻撃したものでした

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1934年(昭和9)3月12日

水雷艇友鶴(2月舞鶴海軍工作部で竣工)、佐世保港外で転覆

引き渡しを終えたばかりの友鶴(527トン)が転覆し、乗員110余人の内生存者はわずか13人の大惨事でした。事故の原因は駆逐艦並みの過大な重兵装備で、艦隊の復元性が問題となりました。

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1955年(昭和30)3月13日

由良村、村民大会の結果合併不参加を声明

これは、岡田上、岡田中、岡田下、八雲、神崎村との6ヶ村合併への不参加でした。八雲・神崎・由良三村組合立由良川中学校の位置をめぐって対立し、5ヶ村合併で加佐町が誕生し、由良は宮津市と合併します。

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1756年(宝暦6)3月15日

久田美村口の川原に百姓300人集合

宝暦期は豊作で米価が下落しましたが、宝暦5年凶作となりました。3月13、14日頃由良川筋のあちこちを乞食体の2、3人がものもらいをして一揆を促していました。宝暦一揆の始まりです。

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1652年(慶安5)3月17日

高直、江戸参向公卿の館伴につき、法会へまいる勅使の伴を仰せつけられる

京極高直に関する年表はこちら

歴史上の人物を追加し、コラムも700件超えました。

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1858年(安政5)3月

藩、領分漆の国産品化のため、他所よりの漆搔きを禁止、他国へ漆搔きは領分で稼ぐこと、漆支配人を高津江村吉三郎に加えて、行永村甚右衛門へ東方漆支配人を申しつけた。

2年後には、桐実・楮とともに会所へ申告すれば入札や直売が自由となりました。

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1928年(昭和3)3月20日

三、一五事件に関連し舞鶴海軍工作部職工4名検挙

3、15事件とは、政府が行った全国的な共産主義者の検挙で、全国で1600人が検挙され、488人が起訴されました。4人は治安維持法違反として実刑判決を受けました。

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1923年(大正12)3月21日

京都府選出政友会所属代議士らによる「舞鶴軍港廃止ニ伴フ地方善後策ニ関スル建議案」、衆議院にて可決

ワシントン会議により軍港廃止が決まり、新舞鶴町・中舞鶴町は議会に働きかけました。結果、45万円下付が決まりましたが、実際は20万円でした

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1350年(観応元)3月23日

西大寺から派遣された政所尭基、専光房に対し釈迦講田として1反を寄進、大森宮では毎月晦日に釈迦講を実施

同年6月3日の宛行状では、大森宮は志楽荘春日部村の一宮でした。1341年足利尊氏により西大寺に春日部村が寄進され釈迦信仰が広まります。

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1851年(嘉永4)3月24日

藩、村々88歳以上の者の名前取り調べ、大庄屋1組ごとに書付を差し出すよう達する

このような高齢者の調査は、1793年(寛政5)4月19日にもあります。高齢者の調査は、1793年(寛政5)4月19日にもあります。詳しくは以下のコラムを参照してください。

困っているお年寄いませんか?~6代藩主牧野宣成の福祉政策~

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1902年(明治35)3月25日

鉄道敷設法改正により福知山・舞鶴間の鉄道を官設することが決定

明治34年10月舞鶴鎮守府が開庁し、軍港設置に必要な物資を輸送するため、第16議会で舞鶴鉄道速成の建議案が提出され2月16日に可決されます。

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1817年(文化14)3月27日

藩、渡り所より上安久村松茸山へ向けて、鉄砲玉丁稽古実施する 藩主、4ツ時より渡り所に出座

藩の管理する立山の内、建部山・真壁山・青谷山・佐風ヶ嶽・牛渡し・前嶋の6カ所が街竹山に指定されていました。8月中旬になると山は留山になりました。

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1838年(天保9)3月29日

池之内組大庄屋、巡見使来藩につき、村々の駕籠・荷物持人足の名前を書付にて差し出すよう組内村々へ達する

幕府の巡見使は将軍代替ごとに全国に派遣されました。4月12日田辺藩領の北有路村に泊、13日田辺町、14日由良村昼休、宮津藩領へ向かいます

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1945年(昭和20)3月30日

岡田中、岡田下、八雲村、京都市の学童集団疎開児童190人受入れ

集団疎開は、1944年(昭和19)7月、防空上重要な東京他8都市の児童35万人から開始されました。1945年3月集団疎開強化要綱により、京都・舞鶴が追加され実施したものでした。

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3月31日

1923年(大正12)舞鶴鎮守府閉庁式

1944年(昭和19)京都府舞鶴港務所廃止

1948年 市立各青年学校廃止

1961年 岡田中小学校漆原分校、1963年池内小学校上根分校、1964年志楽小学校松尾分校廃止

1965年 公益質屋廃止

年度最後は、様々な機関が廃止されています

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