2025年X掲載、『舞鶴市史』年表を中心に
1947年(昭和22)4月1日
舞鶴海洋気象台(字北吸)開設
昭和21年3月、復員業務協力のために宮津測候所舞鶴臨時出張所が設置されました。全国4カ所の海洋気象台の一つで、日本海側を担当区域としていました。2013年に廃止され、日本海海洋気象センターへと改組されました。
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1813年(文化10)4月2日
池之内組大庄屋、当組割当て先納銀3月分と同高を4月分として上納する
先納銀とは秋の収納米をその年の春や夏に銀で前もって納めさせる制度で、藩財政の窮乏に対応するための百姓側の負担でした。文化10年には3・4・5月の3回にわたり実施されました。
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713年(和銅6)4月3日
丹後国、丹波国の加佐、与佐、丹波、竹野、熊野郡を割いて置国される
丹後国司として知られる藤原保昌は、武勇にすぐれ「四天王」と称され、和泉式部の夫としても有名です。祇園祭では、その逸話が保昌山の題材にもなっています。
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1930年(昭和5)4月4日
加佐郡家畜保険組合設立
家畜の伝染病による損失は、農村では頼母子講などによる相互救済で対応していました。各地に保険会社も設立されましたが、昭和4年9月には農林関係初の保険制度として「家畜保険法」が施行されました。
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1954年(昭和29)4月5日
舞鶴史話を刊行(市制10周年記念事業)
昭和18年、舞鶴市長の水島彦一郎が郷土史編纂の必要性を感じ、編さん委員を委嘱して資料収集を始めました。戦後、その委員の一人であった池田儀一郎が、地域の歴史をまとめた『舞鶴史話』を執筆しました。
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1853年(嘉永6)4月6日
室尾谷観音寺、この日より5日の間、藩主参詣につき開帳を仰せつけられる
室尾谷観音寺は、714年に行基が開いた真言宗の古刹で、十一面観音を本尊とします。近世以来、「丹後国神名帳」所蔵でも知られます。
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1945年(昭和20)4月7日
府、京都市、舞鶴市の緊急要人員の市外転出を禁止
この措置は、戦時緊急人員確保として、技能者や都市防災要員の転出を禁じたものです。人員疎開を推進する一方で、転出を抑制し残留を決定する政策でした。
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1957年(昭和32)4月8日
ラジオ京都舞鶴放送局、放送開始
ラジオ京都は、昭和26年12月に京都放送株式会社(現・KBS京都)によって放送を開始しました。舞鶴放送局は本局以外で初めての開設で、その後、福知山、滋賀放送局も設置されました。
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1887年(明治20)4月9日
舞鶴警察署巡査派出所を、久田美村に置く 久田美校の一室を借用する
明治19年11月、宮津警察署舞鶴分署が独立し、舞鶴警察署となり、定員は警部2人、巡査20人でした。同時に市場分署は廃止され、舞鶴警察署の派出所となりました。
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1898年(明治31)4月10日
加佐郡農会、町村農会稲作模範田設置規定を設定
明治24年、農会に関する法案が帝国議会に提出されましたが成立しませんでした。当時、加佐郡内では有志農会があり、町村では地主主導による農会が設立され、稲作技術の改良を目指していました。
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1919年(大正8)4月11日
倉梯尋常高等小学校附設女子手芸学校廃校
手芸学校は大正6年6月5日に開校しました。実業補習学校は小学校修了後に職業に就く青少年に対し、実業の知識や技能、普通教育を授けることを目的として設置され、大正10年には加佐郡内で28校ありました。
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1945年(昭和20)4月12日
舞鶴第二中学校動員式、2、3年生舞鶴海軍工廠、第三海軍火薬廠、舞鶴海軍軍需部に出動
舞鶴第二中学校をはじめ第一中学校、第一、第二高等女学校、市立中舞鶴高等女学校では、学校報告隊を結成して勤労作業に出動していました。
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1945年(昭和20)4月13日
舞鶴海軍軍需部指定により海軍軍需部美術研究所(京都市)設置
美術研究所は、京都画壇の作家30余名が動員され、洛西の国民学校で発会式が行われました。日本画家の福田平八郎が指導主任を務め、小野竹喬は資材製作の指導を担当しました。
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1961年(昭和36)4月14日
舞鶴税関支署、新庁舎完成
明治26年に宮津神戸税関出張所が設置され、明治30年に宮津支署へ昇格しました。大正15年に宮津税関支署舞鶴出張所が設立され、昭和10年大阪税関舞鶴出張所、同21年舞鶴税関支署が再開され、宮津は出張所となりました。
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1926年(大正15)4月15日
府、由良川水上滑走船定期運航(福知山、由良間)許可
この水上滑走船の発起人は福知山町の西垣粂太郎ら3人で、船は100馬力のプロペラ船、定員は35人、片道運賃は1円20銭でした。
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1946年(昭和21)4月16日
市連合青年団結成
3月に市内各青年団の幹部を集めて青年団体育成協議会が開かれた後、女子を含む27団・約1万人による連合青年団が結成されました。青年学級などの学習会に加え、バレーボールや陸上競技の対抗戦にも熱心に取り組みました。
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1944年(昭和19)4月17日
明倫国民学校、決戦報国農場開拓(舞鶴公園空地借入)
これは従来の勤労作業に加えて、食糧増産のためひらいたものでした。
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1306年(嘉元4)4月18日
志高荘、近江国馬杉荘とともに広隆寺桂宮院の修造料所に充てられる
志高荘は、村上天皇(在位946〜967)の女御が、広隆寺の薬師如来に燃灯料として寄進したと『広隆寺縁起』に記されています。丹後国内でも最も早い荘園成立の事例とされています。
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1793年(寛政5)4月19日
藩、在町男女とも、80~87歳に鳥目500文、88歳以上に同1貫文ずつ給する
この政策は、6代藩主牧野宣成によるものです。詳しくは、以下のコラムをご参照ください。
https://marumaru.kpu-his.jp/column/2023/03/85
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1912年(明治45)4月20日
静渓橋(舞鶴町字魚屋)竣工
静渓橋付近からは、田辺城大手通沿いの西の内堀を望むことができました。現在の新静渓橋は、昭和49年3月に架けられたものです。
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1942年(昭和17)4月21日
東舞鶴市翼賛壮年団結団式
大政翼賛会は昭和17年1月に壮年団を結成し、府県や市町村に呼びかけて各種団体の推薦により、25歳から45歳までを対象とする要綱を示しました。舞鶴市では150人、東舞鶴市では194人が選出されました。
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1950年(昭和25)4月22日
市議会、日本板硝子株式会社の工場誘致につき、同会社の希望条件受諾を了承(字大波下、旧海軍軍需部大波重油施設地に同社舞鶴工場設置)
日本板硝子は高級板ガラス部門の復興を計画し、若松、四日市に続く第三工場の建設を舞鶴市に決定しました。
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1645年(正保2)4月23日
牧野信成、親成、冨成、徳川竹千代(家綱)の加冠の式において、各役を務める
冨成は御符籙を、親成は御刀を持つ役を務めました。加冠役は井伊直孝が務め、信成は烏帽子を柳筥に入れて直孝に渡す役目を担い、直孝がそれを若君の頭上にのせました。
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1601年(慶長6)4月24日
高知奉行人天野小左衛門尉、井上才助、吉田平蔵、成相寺に禁制を下す
京極高知は、慶長5年12月15日に丹後国受け取り後、17日に宗雲寺、25日に知恩寺文殊堂へ禁制を、翌年には桂林寺他の寺領を安堵しましたが、成相寺は奉行人が禁制を下しています。
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1918年(大正7)4月25日
舞鶴製糸株式会社(中筋村字伊佐津)設立
前身の舞鶴製糸会社は明治14年6月に設立されましたが、予定通り大正7年7月に綾部町の郡是製糸株式会社に吸収合併されました。工場を新設し、大正9年6月に郡是製糸(株)舞鶴工場として事業を開始しました。
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1955年(昭和30)4月26日
市議会議員協議会、日之出化学工業(株)舞鶴工場の煙害問題につき被害者代表の説明を聞く
市が倉谷に誘致した工場の有毒ガスにより、近隣の稲の葉先が黄変する被害が発生しました。余内・中筋地区の農協を中心に問題解決に取り組みました。
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1952年(昭和27)4月28日
市議会、舞鶴湾で弾薬処理作業中、爆破遭難者遺族援護に関する意見書可決
この事故は、昭和20年11月13日進駐軍に雇用された作業員が西港の和田沖で遭遇し33人が死亡する大惨事となりました。請願書は京都府を通じて関係国会議員に送付されました。
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1941年(昭和16)4月29日
時艱克服聖業完遂大会開催(主催在郷軍人会舞鶴市連合分会、明倫校)
昭和天皇の誕生日であるこの日、大会には市内の在郷軍人分会、軍友会、国防婦人会、傷痍軍人会、青年学校が参加し、終了後には市中を行進しました。
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1949年(昭和24)4月30日
財団法人聖ヨゼフ学園、校地・校舎全部を大蔵省より払い下げられる
昭和4年、三の丸の天主公教会内に舞鶴再訪女学院が開設され、昭和15年に舞鶴暁星実科女学校となって倉谷に移転しましたが、昭和18年に海軍に買収されました。昭和21年に日星高等女学校となり、昭和23年12月の学制改革により日星高等学校となりました。
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1801年(享和元)4月
田辺町役人中、京都の心学講師中沢道二を招き、毎夜、瑞光寺において道話を開講する
道二は瑞光寺において毎夜、席料無料で道話を開催しました。『田辺孝子伝』には、道話を聞いた東吉原の九郎右衛門が、その日に孝行息子に変わったと伝えられています