きたありじじょう
・福知山市大江町北有路小字堂本他
・ 遺構---曲輪、堀切、堅堀、虎口 ・占地---山頂
・標高---85m ・比高---75m ・遺跡地図番号---大江町43
この城は、大雲橋北詰の光明寺裏山の展望台付近に位置する。「大江町誌」によると城の南西から登り道があるので、こちらが本来の城道かもしれない。大きな堀切を境にして二つの曲輪群からなる。北側には二段の曲輪があり斜面には堅堀を敷設している。南側の曲輪は南北50m東西25m程の広さがある。一段下った南東の曲輪と虎口はかなり破壊されている。西側の斜面の中腹に幅5m長さ20mの曲輪があり、山麓の川湊の防禦を意識したものと考える。
城主については、「嶽家文書」では矢(野)五郎左衛門とし、「竹原家文書」などでは山名与五郎(あるいは与九郎)という。山名与九郎と併記して倉橋弥三をあげる地誌もあり、「大江町誌」は、先祖が天正の頃に山名与九郎に滅ぼされて帰農したという倉橋家の系譜を紹介している。
【山城日記8】
10月15日(日)、大江町の千原城・北有路別城と志高館城の3ヶ所にいきました。頭も体も使ったという感じの日でした。特に北有路別城はブッシュがすごくて、高橋さんがこれは切岸の城だと何度いわれても、「これが城?」と半信半疑で、歩き回っているうちに、図面がどんどんできていって、高橋さんの感もだんだんすまされていって、「その先に竪堀があるはず」といわれると竪堀が表れるという次第でした。横堀があったり、今までの舞鶴の城とはだいぶ趣がちがいます。行政区としては田辺藩だけど、文化的には福知山に近いのかな?千原城にしろ、大江町の城は大きいようです。(こ)
平成18.10.18