2025年X掲載、『舞鶴市史』年表を中心に
5月 まるまる舞鶴 今日は何の日(3)
2025年X掲載、『舞鶴市史』年表を中心に
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1927年(昭和2)5月1日
メーデー行事、初めて舞鶴で開催
海軍工廠の労働組合であった共立会は、午後1時から「メーデー記念労働問題大演説会」を新舞鶴町の稲荷座で開催しました。その後、活動は縮小され、昭和8年以降は実施されなくなりました。
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1944年(昭和19)5月2日
青少年戦時特別滑空訓練に明倫国民学校高等科児童7名参加、5月30日まで、相楽郡木津訓練所
兵庫県の豊岡第一国民学校では、児童3名が7月6日から8月3日まで、北海道帯広の啓北学校では6月1日から30日まで、全国の児童が1ヶ月間参加しています。
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1947年(昭和22)5月3日
憲法施行記念第1回舞鶴市駅伝競走大会開催(市主催)
市は市民の健康増進と戦後の苦難克服を目的に、スポーツ復興の一環として駅伝を計画しました。昭和21年5月、スポーツ愛好者が設立した舞鶴市体育協会と協議のうえ、憲法施行日に開催されました。
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1949年(昭和24)5月4日
府立河守農業高等学校岡田分校、岡田下小学校の一部を仮校舎として発足
岡田分校は、昭和23年9月に農業科・家庭科の定時制課程が設置認可され、昭和26年8月には志高の地に独立校舎が完成しました。
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1883年(明治16)5月5日
真言宗智恩院(引土村、京都仁和寺末)、円隆寺と改称
田辺藩は文化8年以降、他国寺院の配札を禁じていました。そのため毎年1月に智恩院での大般若祈祷を指示し、藩士には約450枚、江戸屋敷には150枚、在町にはおよそ190枚の札を下付していました。
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1705年(宝永2)5月6日
京都西洞院通椹木町田辺権四郎ら、丹後穀物他の荷物を由良川筋より嵯峨へ搬出するため幕府の許可を得、荷物を納める蔵2棟を天竜寺境内伏原堤に建てたことを同寺へ申し出、一札を入れる
田辺は蔵屋敷として、問屋と土蔵各1棟を建てています。
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1917年(大正6)5月7日
加佐郡内各町村長27名、郡長排斥のため、郡尚武会、赤十字社郡支部、愛国婦人会委員の辞表をまとめ提出
この時の郡長・高木謙二郎は、大正6年1月から大正8年6月まで加佐郡長を務め、東大浦分村問題や郡費不均一撤廃問題、実業学校の設置などに対応しました。
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1831年(天保2)5月8日
池之内組大庄屋、河辺観音寺普請のための富興行に村々寄進の志をもって世話なさるべくと通知する
富くじは延享2年(1745)1、12月、翌3年1月に大川神社で行われ、文政12年(1829)11月には本行寺の本堂修復金を集めるため浄瑠璃興行が出願されます。
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1908年(明治41)5月9日
大阪電灯株式会社舞鶴発電所(新舞鶴町字浜)完成、22日新舞鶴町、余部町、舞鶴町に電力供給(4621灯)
原動機はアメリカ製スターリングボイラー2本で、発電機は60サイクル(60Hz)、モノサイクリック方式、出力150キロワット1台が設置されました。
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1926年(大正15)5月10日
北陸汽船株式会社、北祐丸(ウラジオストク、北朝鮮、裏日本連絡命令航路)、新舞鶴港へ初入港
北祐丸(1450トン)は逓信省の命令により、富山県伏木からウラジオストクを結ぶ航路に就航し、復路のみ七尾、清津、元山、城津に寄航しました。1航海は15日で、年間20回運航されました。
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1965年(昭和40)5月11日
舞鶴商工会議所会館(字北吸)完成
舞鶴商工会議所では、昭和37年4月に舞鶴手形交換所を商工会議所内に開設し、金融機関の手形処理がより便利になりました。会館は平成10年12月に新会館が竣工しています。
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1811年(文化8)5月
藩、納米が計り納めでは手間入り多く難渋のこともある様子につき、この度、俵納めを仰せつけるとして、込み米、俵米検査その他の定法を達する
藩の蔵に納める米には、折米・青米・欠米の持ち込みが禁じられており、不適格な米は村に差し戻されました。
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1865年(元治2)5月13日
藩、藩主が左右備え御供仰せ蒙り程なく発輿に相成る不容易の時節柄につき、追って沙汰に及ぶまで在町夜祭、氏神祭礼を見合わすよう達する
4月には第二次長州征伐に向けて将軍警護の命が下され、閏5月には境番所の見張り体制も厳重にされました。
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1830年(文政13)5月
藩、寺内町森屋専蔵に糸問屋を申しつける間、百姓の手引き糸が生計に役立てば同人へ売るよう達する
その後、養蚕業の普及により糸引きを本業とする百姓が増加しましたが、藩庁は農業が疎かになることを懸念し、引き続きこれを禁止していました。
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1965年(昭和40)5月15日
ソ連極東物産展開催(西公会堂)
この物産展は、ナホトカ市の極東貿易事務所の主催で、新潟や富山でも行われました。舞鶴会場では22日まで開かれ、魚類の缶詰や鉱物・林産物など246品が並び、入場者は30,246人にのぼりました。
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1865年(元治2)5月(閏)17日
藩は、京都や近隣への浮浪の徒潜入の風聞により、領内境番所の見張りを厳重にし、町方、市場、中山村の旅籠屋、松尾村の巡礼宿などに特に注意を促しました。
中山村は、宮津街道が通じ、由良川に面して対岸の和江村と渡しで結ばれていました。
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1963年(昭和38)5月18日
引揚記念碑「あゝ母なる国」引揚者有志により建立(字平)
この記念碑は、引揚に関する最初の記念碑として、旧舞鶴地方引揚援護局北側の山麓にコンクリート製で建立されました。その後、昭和53年、舞鶴市の援助により石造となり、引揚記念公園へ移されました。
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1788年(天明8)5月19日
幕府巡見使来藩する この日、北有路村宿泊
巡見使は、京都留守居の書状によれば、6日に京都を出発し、宇治、木津、淀と巡行し、綾部、福知山までの行程が決定されていました。そのため、領内の通過は20日以降と推定されましたが1日早まりました。
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(この後、5月20日~31日までさらに続きます!)
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1951年(昭和26)5月20日
舞鶴観光協会設立
昭和29年7月3日、舞鶴観光協会主催による「舞鶴民謡の夕」が開催されました。当時、観光協会は体育協会とともに舞鶴市役所内に設置されました。その後、昭和40年には野原地区にも観光協会が設置されます。
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1911年(明治44)5月21日
舞鶴郷友会、旧田辺藩主牧野子爵邸(東京)にて創立(東京在住加佐郡出身者の会)
郷友会は、創立時に133人の会員を擁し、年会費は1円でした。会報は随時発行され地元紙「丹州時報」からの記事抜粋や、郷里の親類・知人からの便りが掲載されていました。
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1857年(安政4)5月
藩、繭は商人が申し合わせて下直に買い取る趣につき、1村ごと入札致し売り払うよう達する
この触書は、商人による繭の買い叩きを防ぐため、既に得意先がある場合を除き、各村単位で入札による販売を行うよう定めたものでした。
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1935年(昭和10)5月23日
社団法人海軍協会舞鶴支部設置
協会は各府県および軍港・要港に支部を設け、舞鶴支部は新舞鶴町役場内に事務所を構え、昭和13年には会員数が1913人に達しました。主な事業は、機関誌の配布、講演会や映画会の開催、軍港や進水式の見学などでした。
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1950年(昭和25)5月24日
市議会、旧軍港市転換法啓蒙措置委員会を設置
4月11日、衆議院で旧軍港市転換法案が可決され、憲法の規定に基づき、6月4日に旧軍港市4市で一斉に住民投票が行われました。舞鶴市は賛成率85%で、4市の中で最も低い結果となりました。
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1948年(昭和23)5月25日
大和紡績(株)、高野工場を舞鶴工場と改称
戦時中、大和工業舞鶴航空機工場は航空機の部品生産や被弾修理を行っていました。終戦後、ジュラルミン製のバケツを製造し、自転車製造に転換しましたが、部品入手が困難となり、紡績業に復帰しました。
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1963年(昭和38)5月26日
ナホトカ市との「友情の園」完成(市役所北庭)
昭和36年6月、舞鶴市はソ連のナホトカ市と、日本初の旧社会主義国との姉妹都市提携を結びました。昭和39年8月からは、舞鶴・ナホトカ姉妹都市通信体育協議会が始まりました。
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1957年(昭和32)5月27日
加佐町、舞鶴市に編入
市役所加佐分室を加佐町役場跡(字志高)に設置し、加佐町立小、中学校を舞鶴市立と改称しました。昭和29年の合併により舞鶴市の人口は10万人を突破し、27日には市内各地で合併祝賀会が開催されました。
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1780年(安永9)5月28日
藩、町方婚礼の節の石打ちのこと、そのほか御禁制の次第を書付にて仰せ出す
この日夜、町中の年寄、私宅へ町人を集めてこれを読み聞かせ申し渡す。石打ちは、婚礼の行列に向けて近隣の人々が石を投げる風習で、村外婚の際に行われました。
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1866年(慶応2)5月29日
藩、生糸に関し公儀より指示があり売買を差し止めたが、来月3日より商会所で新糸、古糸を持参し改めを受け売買すべき旨、定法書を付して達する
幕府は、全国各地に改会所をつくり、生糸・蚕種は、会所の改印を必要とする方法を指示しました。
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1916年(大正5)5月30日
憲兵隊配置及び憲兵分隊管区別等施行、姫路憲兵隊舞鶴分隊(余部町)管区は加佐、与謝、中、竹野、熊野、何鹿郡、福井県大飯郡
明治29年舞鶴町に憲兵屯所が設置され(第4師団(大阪)所属)、同33年に余部町へ移転し中舞鶴憲兵分隊となりました。
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1946年(昭和21)5月31日
市、住宅課新設(旧海軍住宅、市営住宅等管理)
当時、市街地の住宅不足が深刻であり、大蔵省から移管された旧海軍住宅700戸と市営住宅398戸の管理する必要がありました。これに対応するため、「舞鶴市処務規則」を改正し、総務部内に新設しました。
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