6月 まるまる舞鶴 今日は何の日(3)
2025年X掲載、『舞鶴市史』年表を中心に
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1950年(昭和25)6月1日
府立東舞鶴高等学校定時制飯野分校、中舞鶴分校と改称
飯野分校は、飯野産業株式会社舞鶴造船工員養成所(旧舞鶴海軍工廠跡地)を母体とし工業科となりました。東舞鶴高校は、普通科、農業科、家庭科の各課程を全日制・定時制で設置し発足しました。
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1886年(明治19)6月2日
加佐郡150か村連合町村会開設
明治17年6月、京都府は区町村会法の改正に伴い、区長村会規則を改正しました。翌年、加佐郡連合町村会が開催され、171町村の代表議員が集まり、吉坂峠の開削など土木費について審議しました。
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1663年(寛文3)6月3日
京都所司代牧野親成、霊元天皇即位に伴う少将昇進の詔を固辞する
この時、将軍の使であった松江藩主松平直政は、従四位上・左近衛権少将、高家大澤基将も従四位上・左少将に昇進しています。親成の固辞は天皇に伝えられ、理解されたとあります。
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1951年(昭和26)6月4日
野原大火、住家59戸、船小屋等106棟、若宮神社など焼失
この火災は、市街地からの距離、陸路の未整備、住宅の密集などが要因で大火となり、延べ1,032平方メートルと山林10アールを焼失し、13人が負傷しました。
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1739年(元文4)6月5日
朝代神社(字朝代)本殿(市指定文化財)再建される
享保17年(1732年)9月3日に焼失した本殿は、一間社流造、檜皮葺で再建されました。大工棟梁は田口神社本殿と同様に丹波町の人でした。
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1952年(昭和27)6月6日
日東建設企業組合寄宿舎(字伊佐津)より出火、郡是舞鶴工場など11棟全焼
日東建設企業組合は、昭和24年9月30日、出資額35万円で設立された建設業の組合です。中小企業の成長発展のため、事業協同組合・信用協同組合などが法律で定められました。
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1669年(寛文9)6月7日
親成、田辺城に入る
寛永2年(1625年)、京極高広が宮津城へ移る際、田辺城の城門や石垣などが破却されました。その後、寛文9年牧野親成が入城した時点では、矢倉・門・高塀が一切なく、石垣も所々崩れていたと記録されています。
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1932年(昭和7年)6月8日
舞鶴中学校創立10周年記念事業、端艇3隻(たなべ、たてべ、まなゐ)命名式
明倫小学校にも端艇(ボート)があり、高等科男子児童全員が漕艇訓練を受けました。明治31年には建部と青葉、大正13・14年には五老と愛宕が新造されます。
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1937年(昭和12)6月9日
日露戦争回顧座談会開催(舞鶴要塞司令部主催)
この年、時局の非常事態を反映し、3月10日の陸軍記念日には、新舞鶴町在住の日露戦争出征戦友会主催の戦没者慰霊祭が白糸濱神社で行われました。武運長久祈願祭や国防献金なども各地で見られました。
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1940年(昭和15)6月10日
財団法人海仁会病院(東舞鶴市字溝尻、現市民病院)開院
海仁会病院は1939年9月4日に浮島グランド跡地で地鎮祭が行われ、要港部司令官代理や海軍病院職員が参列しました。財界名士の寄附により建設され、佐世保、横須賀、呉にも設立されました。
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1837年(天保8)6月
藩、預け米残り分の放出を許す。また、今後願い出ても藩に米は皆無の旨を達する
天保の飢饉による米不足を受け、前年11月6日、藩の収納米から大庄屋1組につき100俵ずつ預け、各囲蔵へ詰めました。4月15日には預け米のうち50俵の放出が許可されました。
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1835年(天保6)6月12日
藩、明13日、三か所において雨留祈祷を行うよう達する
雨乞いとは逆に、長雨が続くと「雨留」が行われました。城下町では、朝代社・神明社・愛宕社・大川社の4社で雨留や天候回復を願う祈祷が行われ、惣町中による惣参りも行われました。
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1579年(天正7)6月13日
丹後国松田摂津守(定頼か)、信長にハヤブサの雛二羽を進上する
松田氏は天正4年5月に毛利氏へ内応し、吉川元春に書状を送っていますが、その後の織田信長による三丹地方攻略の中では、信長に内応した国衆と位置づけられます。
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1952年(昭和27)6月14日
舞鶴東仏教会、慰霊祭を初めて執行(共楽公園、海軍墓地)
舞鶴東仏教会は、大正9年の尼港(ニコライエフスク)事件から太平洋戦争までの戦没者427柱を対象に、戦後初の慰霊祭を実施しました。
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1953年(昭和28)6月15日
府道小倉、西舞鶴線双鶴通洞(白鳥トンネル)開通、舞鶴交通バス運行開始
舞鶴交通バスは、昭和19年に舞鶴振興会社が高浜自動車商会と舞鶴自動車商会を買収し改称したものです。同27年の年間輸送人員は444万人に達し、バスを49輛を保有していました。
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1916年(大正5)6月16日
舞鶴町疑獄に端を発し助役ら辞表提出、6月19日町会議員総辞職
この時、舞鶴町の土井名誉助役、佐久間助役らが辞任しました。
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1742年(寛保2)6月17日
由良、神崎、(南北)有路村庄屋、船持惣代、船差、川口下組大庄屋ら11人、蓼原村との船論につき、藩の意向を受けて幕府に訴えるため江戸へ出立する
享保2年幕府領となった蓼原村は、由良川の船輸送に参入し、蓼原での荷物の積み替えを要求しました。
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1873年(明治6)6月18日
豊岡県、旧藩の債権の取立てに着手
旧藩の解体により、各県は旧藩の債権や債務を引き継ぎました。旧宮津藩領内の村々では、藩から借りていた借銭の債務について、明治6年から20年年賦での返済が命じられました。
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1569年(永禄12)6月19日
里村紹巴、この日、高浜祇園会見物、松尾寺参詣して丹後国志楽に入り、ここより舟にて蛇嶋へ上って逗留する
里村紹巴は、蛇島へ渡る際、手紙が届かず迎船もなく、敵味方の境目なので待ちわびた後、あやしき釣船を得て上陸したとあります。
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1918年(大正7)6月20日
舞鶴、ウラジオストク間航路第1船鷲丸入港
第一次世界大戦当時、船舶不足により海上運賃が高騰し、ウラジオストクと神戸間の輸送は採算が取れなくなりました。ウスリー山脈の木材をマッチの原料として輸送していました。
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1947年(昭和22)6月21日
市、「舞鶴市民の歌」を制定
日本国憲法施行記念行事の一環として歌詞が公募され、128点の応募から塩尻歌灯の作品が選ばれました。舞鶴市出身の福本正・京都師範学校教授が作曲。
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1957年(昭和32)6月22日
国鉄丹後神崎駅開設
舞鶴~由良間は大正12年9月に完成、宮津までは翌大正13年2月に開通。神崎駅はこの路線で最後に開設されました。
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1925年(大正14)6月23日
新舞鶴町長、同町実業会長ら、朝鮮釜山商業会議所、朝鮮総督府などを訪問
南朝鮮航路の新舞鶴港寄港を要請。その後、大連、ウラジオストク、樺太などとの航路寄港にも成功。
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1944年(昭和19)6月24日
府立舞鶴第二中学校3年生以上全員、舞鶴海軍施設部に出動
学徒動員令により、学徒の通年動員と学校の種別による適正配置などが決定されました。
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1932年(昭和7年)6月25日
加佐郡小学校郷土教育資料展覧会開催
郡内26小学校が参加し、郷土資料室を設置し郷土教育を常時行う学校も。
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1954年(昭和29)6月26日
市議会、国際貿易促進議員連盟として加盟決定
昭和42年に脱会、昭和44年再加盟し昭和49年に15年以上の加盟で表彰。
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1949年(昭和24)6月27日
ソ連引揚再開第1船高砂丸入港
入港の際、歓迎の花火。引揚者に革命歌を歌い、日の丸に背を向ける者もおり、迎える側に戸惑いも。
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1866年(慶応2)6月28日
藩主牧野誠成ら、芸州口討手として急速出張命令を受ける
共に出張した松平光則や内藤政挙は他藩の藩主であり、戦歴も豊富でした。
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1957年(昭和32)6月29日
市役所職員組合連合会、舞鶴市労連と改称
各組合が結成されたのち、連合組織化し、臨時職員組合も加入。
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1950年(昭和25)6月30日
国道35号(現27号)吉坂トンネル開通
昭和18年着工、資材不足で中止後、昭和25年に開通。昭和28年台風で崩壊し、昭和31年に再建。