7月 まるまる舞鶴 今日は何の日(3)
2025年X掲載、『舞鶴市史』年表を中心に
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1959年(昭和34)7月1日
大阪入国管理事務所舞鶴出張所開設
昭和26年に舞鶴港が準特定重要港湾に指定され、ソ連からの第一船が入港したことを受け、舞鶴市の要請により昭和27年8月1日に開設されました。その後、昭和30年7月から昭和34年6月まで一時閉鎖されていました
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1897年(明治30)7月2日
舞鶴軍港境域指定
この時の境域は、成生岬・黒岬・由良川の久田美、何鹿郡老富、福井県大飯郡青郷村などと定められました。これは、大正12年3月に舞鶴鎮守府が要港部に改編され、第4海軍区が廃止された際の要港の境域と同じです。
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1926年(大正15)7月3日
中舞鶴町公会堂(共楽公園内)落成
共楽公園は大正8年8月に開設、昭和3年11月には中舞鶴町の忠魂碑が建立されました。相撲場や大弓場があり、山上には舞鶴海軍工廠殉難職工の碑や尼港戦死者の忠魂碑もありました。桜や楓が多く眺望がよい場所でした
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1855年(安政2)7月4日
藩は、領内での札遣いに関して文化11年3月の申達を、正月に改めて達した。他所札取扱い禁止のところ、近ごろ相対をもって他所札と両替し、多分に他所札を預る者もあるので、以後は吟味のうえ禁止した。
文政3年、弘化4年にも他所札は禁止されます
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1835年(天保6)7月5日
藩、打ち続く江戸藩邸類焼につき、膨大な再建用材を立山で伐採、用木の減少を来したので、その育林を図るため立入りを停止する旨を達する
文化年間以降、立山の鎌留措置が進められましたが、村の百姓持林を再建用材から除外したための措置でした
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1963年(昭和38)7月6日
府、舞鶴西労働セツルメント(字南田辺)開所
労働セツルメントは、勤労者の福祉の増進と、社会経済的地位の向上を図るため設立されました。事業内容は、労働講座、文化教養講座、料理講習、生け花、手芸教室、結婚式場なども経営されていました。
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1902年(明治35)7月7日
舞鶴町外5か村組合高等小学校、舞鶴高等小学校と改称
舞鶴町、余内、池内、中筋、四所、高野村によって設置された高等小学校は、明倫小学校に併置されました。明治36年に余内町が分離し、明治41年3月には高等小学校自体が廃止・解散となりました
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1787年(天明7)7月8日
大坂町奉行所は、同町年寄へ、勘定奉行所から武州三河嶋村与惣右衛門が由良湊より丹波国黒瀬村まで通船をはじめ、東国、北国の諸産物を引き受け黒瀬村より殿田村まで陸送、同村より高瀬船で嵯峨材木町まで運送することを願いでたことを通達しました
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1715年(正徳5)7月9日
8月19日まで干ばつとなる
この夏、田辺領では大干魃に見舞われ、大森神社の御手洗清水までが涸れたと記録されています。これは古今未曽有の異常事態とされました。この年、森村と行永村では百姓36人が妻子とともに、計183人が逃散しました。
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1839年(天保10)7月10日
夜7ツ時、城内出火、大手門よりの長屋など焼失する
大手門は享保12年の大火で焼失しましたが、再建時には以前のような櫓門ではなく、嘉永4年成立の『田辺孝子伝』の挿絵に見られるように、寄棟屋根を載せた単層の簡素な門へと改められました。
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1585年(天正13)7月11日
忠興、従四位下、侍従に叙任のみぎり、羽柴秀吉より羽柴氏を与えられる
この待遇は、柴田勝家との戦いや小牧・長久手の戦い、紀伊根来・雑賀一揆の鎮圧などで秀吉に忠節を尽くしたためです。その後も、天正16年には左近衛少将、文禄5年には従三位・参議へと昇進しました。
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1864年(文久4)7月12日
藩では、京の厳重な警衛に伴い、自国の警備と往来の旅人の取締を命じられているため、取締強化の一環として、当盆中は仏事を除き平常通りとし、少人数でも集会を禁じ、騒がしいことがないよう達しを出しました。
禁門の変による対応でした。
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1829年(文政12)7月13日
池之内組大庄屋、盆中に踊をしても思いつきの浴衣・頭巾の着用は相成らない旨、村々役人・組頭より申しつけるよう達する
この取り締まりは効果がなかったようで、2年後の天保2年同月日にも、浴衣や絹羽織・足袋の着用を禁じる触が出ています。
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1540年(天文9)7月14日
越前国の海賊船約500艘、反報のために加佐郡に押し寄せる
越前船は17日に帰国しましたが、これは丹後の海賊が若狭の浦へ侵入したことへの報復とみられます。大永7年にも丹後の海賊が蜂起し、若狭の浦を襲って資財を奪い放火したと記録されています。
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1955年(昭和30)7月15日
原水爆反対舞鶴大会開催(東公会堂)
原水爆禁止運動は、昭和29年3月第五福竜丸事件が起こり全国的な運動に拡大しました。舞鶴でも委員会が設立され、1万人を越す署名を集め、8月6日広島で行われた第1回原水爆禁止世界大会に代表6名を送りました
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1958年(昭和33)7月16日
市長選、佐谷靖、再選
昭和29年7月、東西分離問題の責任をとって市長が辞職したのち、舞鶴地方労働組合協議会を中心に革新系市長候補の人選が行われ、佐谷府会議員に出馬が要請されました。佐谷氏はこの再選を含めて6期務めました。
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1951年(昭和26)7月17日
市議会、市外6か村、伝染病院組合解散の件、可決
この可決は、7月15日に国保八雲病院の伝染病棟が完成したことによるものです。国保は国民健康保険組合を指し、昭和23年には北部6ヶ村の国保を統合し、八雲病院の病棟整備を進めていきました
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1853年(嘉永6)7月18日
江戸藩邸、田辺より相回った鉄砲、焔硝、合薬、具足、その他を受け取る
これはペリー来航による人数差し出しに備えた準備で、まず美濃郡上藩主青山大膳亮幸哉から合薬を借用しました。田辺からの武具や侍具足25領などは、ペリー退去後に届きました
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1741年(寛保元)7月19日
小橋・野原村、高波に襲われる。被害80軒の内潰家28軒、このため小屋掛け材木を藩へ願い出て、縄420束・藁5600束は大庄屋8組割に仰せつけられる
これは日本海沿岸に大きな被害があった津波でした。松前領でも死者1467人に及んだとあります
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1951年(昭和26)7月20日
第1回農業委員会委員選挙
同年制定の農業委員会法に基づき、7月に設置されました。委員会は自作農の創設のほか、市長の諮問機関として、農地の開発・改良・保全や生産条件の整備、農業技術・経営の合理化について建議しました。
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1864年(文久4)7月21日
川口中組村々、来る23、24日、北有路村番所へ新拝借鉄砲36挺持参にて相詰めるよう仰せつけられる
禁門の変後、田辺藩は御所の警備にあたっていましたが、長州藩残党の侵入を警戒し、国境の番所に鉄砲持ちを配置しました。
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1934年(昭和9)7月22日
加佐郡中東部連合青年訓練所、野外演習実施(白鳥峠付近)
大正15年に青年訓練所令が公布され、16歳から20歳の男子青年に対し軍事訓練を行うこととなり、郡内の町村では小学校に併設して設置されました。
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1235年(文暦2)7月23日
幕府、丹後国新補地頭の所務に関して、荘園郷保における野畠の収益権と国保司、京保司跡における年貢収納権について問題となったため、追加法を出す
承久の乱後、丹後国の保司の多くが京方に属して没落したことが、要因と考えられています。
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1948年(昭和23)7月24日
市内各学校、教育勅語など市役所へ返納
明倫小学校では、教育勅語と戊申詔書は返納しましたが、他の勅語・詔書類は命令により焼却されました。連合国軍最高司令部の国家神道禁止指令により、三笠小学校の東郷室にあった神殿も撤去されました
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1936年(昭和11)7月25日
中舞鶴小学校第1回野外宿泊訓練実施(中舞鶴町共楽公園)
昭和9年7月22日の加佐郡中東部連合青年訓練所、昭和11年7月18日の加佐郡青年学校の連合野外演習に続き、小学校でも野外宿泊訓練が行われるようになりました。
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1880年(明治13)7月26日
舞鶴の田中甚右衛門、井上喜七ら、大阪より演説者を聘し1週間演説会を開く(民権運動)
この件を報じた大阪日報は聴衆が続々と詰めかけ盛況だったと伝えています。また、同年2月、国会開設を求める檄文「丹後有志人民に告ぐる書」が発表されました
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1943年(昭和18)7月27日
内務大臣、初代舞鶴市長に立花一を選任
立花一は昭和13年、海軍の推薦により徳山海軍燃料廠長から東舞鶴市長に就任しました。当時は海軍少将で、かつて舞鶴要港部港務部長、呉港務部長を務めていました。
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1944年(昭和19)7月28日
吉原国民学校、トンネル式防空壕竣工
トンネル式防空壕は、同年5月の内務省指令により、東京では丘陵や高台の公園などに設置され、250キロ爆弾の直撃にも耐えうる構造とされたと『米国戦略爆撃調査団報告』にあります。
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1945年(昭和20)7月29日
米軍艦上爆撃機1機来襲、舞鶴海軍工廠に爆弾投下
午前8時半頃、500キロ爆弾が投下されました。爆風で吹き飛ばされた97人が死亡、工員のほか、舞鶴第二高等女学校、京都師範学校、京都市第二商業学校、同洛北実務女学校の生徒が含まれていました
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1811年(文化8)7月
藩、鍛冶職に上質の農具製造を命じ、検査のため「鍛冶取締役」4人を置き、平野屋町細工物問屋に日替わりで詰め、仲間が出す細工物の吟味をさせた。農具は庄屋宅へ預け置き、代料は年2回支払う定めであった。
文化期における藩の勧農政策の一連でした。
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1945年(昭和20)7月31日
米軍機、舞鶴地区へ伝単・玩具・シャープペンシルを散布
この時に投下された伝単は、「日本国民に告ぐ」と始まる降伏勧告のビラでした。B29の写真の周囲には、爆撃予定地として大津・富山・久留米と並んで、舞鶴の都市名も記されていました。