8月 まるまる舞鶴 今日は何の日(3)

8月 まるまる舞鶴 今日は何の日(3)

2025年X掲載、『舞鶴市史』年表を中心に

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1936年(昭和11)8月1日

第1回舞鶴みなとまつり開催

1937年(昭和12)

舞鶴みなとまつり、この年から中止

昭和24年に復活し7月20日海の記念日に式典や市中パレードが行われました。同32年花火大会がはじまり西港・東港交互に実施されましたが同38年に休止となりました

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1918年(大正7)8月2日

シベリア出兵で、舞鶴軍港その基地となる

ロシア革命により誕生したソビエト政権に対抗して行われたシベリア出兵では、同年1月、日本政府が居留民保護のためウラジオストクへ軍艦を派遣し、7月には舞鶴鎮守府所属の駆逐艦「朝風」も参加しました。

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1938年(昭和13)8月3日

舞鶴重砲兵連隊将兵150名、朝鮮羅新へ出発(10・24帰隊)

日本とソ連の満州国境で起きた張鼓峰事件の際、朝鮮軍1個師団が現地へ派遣されたため、重砲兵連隊第二中隊は羅新司令部の指揮下に入り、要塞防空任務にあたりました。

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1908年(明治41)8月4日

与保呂川水害予防組合設置(与保呂川、椿川改修)

前年8月24日の豪雨は暴風を伴い、与保呂川西側の堤防が決壊して濁流が西側へあふれました。由良川・与保呂川・高野川をはじめ郡内各地の河川がはん濫し、大きな被害が出ました。

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1943年(昭和18)8月5日

舞鶴倉谷側線(舞鶴駅、海軍工廠第二造兵部間)、竣工

この側線は、同年5月に開設された第二造兵部関係で、昭和15年に新設が決定され用地買収が進められました。海軍唯一の水中兵器専門工場として、機雷600個、爆雷3000個の月産能力を備えていました

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1843年(天保14)8月

藩、公儀改革につきその趣意を相弁え、諸色値段正路に致し正礼をもって現銀に商売すべきこと、在方にても市場・中山・由良村、そのほか往来筋に少々店売り致す者も右同様相心得ることを達する

この触書は、幕府が行った天保の改革に関するものです。

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1939年(昭和14)8月7日

帝国在郷軍人会舞鶴市連合分会・同東舞鶴市連合分会、それぞれ反英市民大会を開く(舞鶴市公会堂)

日華事変の深刻化に伴い、同年6月、日本軍が天津の英仏租界を封鎖したため英国との関係が悪化しました。この時期に東京で日英会談が行われています

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1816年(文化13)8月

藩、稲作の痛みは文化10・9申達通り早田・晩田両度に分けて申し出、早田は彼岸明きごろ、晩田は彼岸明きより30日目ごろ見分役人遣すこと、稲痛帳面は早田彼岸中、晩田彼岸明き30日目までに差し出すことを達する

稲痛の申し出による減免がありました

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1831年(天保2)8月

藩、神事祭礼・虫送り・風送りと名付けて行う芝居同様の催しは御制禁の旨、寛政11年公儀より仰せ出され、その後、神楽・笹踊・振物以外は禁止と触れたが、近年等閑に心得る村々もあり、咎を申しつける旨を達する

今も続く振物は許可されていました。

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1946年(昭和21)8月10日

西地域住民のコレラ感染容疑者、国立病院で真性コレラと診断、以後市内にコレラ患者発生

これ以後、真性患者11人、疑似患者1人、保菌者6人が発生し、1人が死亡しましたが、他の患者は9月中旬に全治して退院しました。

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1955年(昭和30)8月11日

舞鶴市勤労者消費生活協同組合(生協)結成、松尾百貨店にて開店

舞鶴地労協、舞鶴全官公労協は、生産に直結する物品販売の準備を進めましたが、市内業者への圧迫になるとの反対意見が出されました。そこで、松尾百貨店の1階を借りて開店しました。

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1942年(昭和17)8月12日

舞鶴市女子青年団勤労報国隊壮行会(第1回)

女性青年団も青年団と同様に、昭和16年1月に大日本青少年団へ統合されました。この日、女子青年団は8時に公会堂で総会を開き、続く壮行会では郡是縫工所へ90名が送り出されました。

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1324年(元享4)8月13日

六波羅探題、金剛心院に充てて「武士並びに甲乙人等」に対して狩猟以下の狼藉を停止させるべく禁制を出す

禁制には、金剛心院は国家祈祷の霊場、関東極楽寺の末寺とされ、中興の開山は忍性と記されています。この頃、律宗へ改宗したとみられます

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1860年(安政7)8月

藩、諸士以上が野掛けの節、塗笠・小袴着用の場合、土下座すべきこと、忍び笠の場合は忍びのため当人勘弁でも出合いの節は無礼のないよう心得ることを達する

9月には御用人の印鑑を渡すので、忍び笠でも止宿や人足に対応するよう指示がありました。

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1339年(暦応2)8月15日

丹後田辺比丘尼恵阿、円隆寺(字引土)に鰐口を寄進する

この鰐口は、「加佐郡旧語集」に同寺に伝来したありますが、その後の所在は不明です。円隆寺の理性院伝来記によると、文禄4年(1595)8月10日の大雨により什物や縁起類が失われたとあります

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1964年(昭和39)8月16日

第1回舞鶴、ナホトカ姉妹都市通信体育競技会開催

この競技会は昭和36年6月に調印された両市の姉妹都市盟約に基づいて実施され、競技は陸上と水泳の18種目で争われました。舞鶴は7種目で勝利しましたが、総合では男女ともにナホトカが優勝しました

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1580年(天正8)8月17日

藤孝、忠興および明智光秀、与謝郡江尻村を充所とする三名連署の禁制を下す

細川氏は、8月に丹後へ入国し治安を回復する目的で寺社や村落に禁制を出しました。入国半月後に出されたのが、成相寺にも近く宮津湾の港でもあった江尻村のものでした。

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1539年(天文8)8月18日

登尾八幡神社御正体鏡(市指定文化財)、裏面に中興願主登尾兵衛追銘を残す

鏡の表面には、正平7年(1353)の銘、「南無妙法蓮華経」が中央に刻まれ、右に「南無天照太神宮」「日吉大明神」、左に「南無八幡大菩薩」「黒馬大明神」が彫られています

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1857年(安政4)8月19日

藩、昨年、白杉村横浪に築いた台場へ備えつけの大砲を引土村にて鋳立て、在方・町方ともに相応に夫役を指示、そのため町方大工、鍛冶、桶屋、左官のほか人足を申しつける

白杉台場は、前年3月、現在の白杉漁港に近い場所に作られました

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1954年(昭和29)8月20日         

水産会館(字下安久)完成

市は水産業者や漁船員の便宜を図り、水産業の振興と発展に資するため、下安久の漁港埋立地に水産会館を建設しました。

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1842年(天保13)8月21日

藩、銀札通用願高が出切りにも相成るにつき、追って沙汰に及ぶまで金銀と取り混ぜ通用勝手次第たるべき旨を達する

この触書は、銀札通用の上限に達したことにともなう措置でした。しかし、嘉永4年(1851)5月には、文化・文政期の触書と同様に、銀札以外の使用を禁止するとともに、金銀の両替を当事者同士で行うことを禁じました。

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1815年(文化12)8月

藩、博労の人数が領内不相応に多いとして、以後、博労の新職および既成株売買を差し止める旨達する

牛商いの取締のために博労頭を任命し調査させました。百姓が自分の牛を売買することは自由とされ、博労からは銀10匁の運上を徴収しました

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1953年(昭和28)8月23日

舞鶴平和懇談会結成

この懇談会は、日本の再軍備に反対し、平和憲法の擁護を目標として、舞鶴の有志によって設立されました。当時は、若狭湾演習場問題が基地反対闘争の一環として取り上げられていた時期でした。

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1854年(嘉永7)8月24日

別所村にて火事起こる

この火事では、庄屋・年寄・百姓の家、計24軒が焼失しました。この火事に際して、領内の家数で救援銀を負担し、祖母谷組では245匁を集めています。詳しくは、以下のコラムを参照ください。https://marumaru.kpu-his.jp/column/2024/06/3232

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1950年(昭和25)8月25日

警察予備隊舞鶴駐屯部隊移駐

舞鶴駐屯部隊は、泉源寺・平の旧海兵団跡に駐屯しました。昭和27年8月1日には警備隊舞鶴地方隊が編成され、秋田から島根にかけての日本海を管轄し、機雷の除去や処分を主な任務としました。

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1912年(明治45)8月26日

舞鶴瓦斯株式会社(新舞鶴町)設立

その後、昭和10年の商工省ガス事業委員会で、舞鶴地方のガス事業について舞鶴瓦斯と丹後瓦斯の2社が申請しました。供給対象は中舞鶴・新舞鶴であり、工場を中舞鶴に設置し料金が安価になる丹後瓦斯に決定しました

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1858年(安政5)8月27日

藩、津留中であっても他所米買入れ御免とするので、番所通行の際、手形に下役の裏書で通り、員数は役所へ申し出るよう達する

天保11年には、他所米の買入れに功績があったため、竹屋町の船主油屋久兵衛に対し、藩から木履御免の栄が与えられました

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1854年(嘉永7)8月28日

藩士斎藤甚太夫、境谷村にて砲術稽古を実施する

斎藤家の当主は、文化4年(1807)ロシアのレザノフの部下による蝦夷地襲撃事件の際、砲術鍛錬者で幕臣の森重靭負の弟子として、牧野豊前守家来の肩書で8月17日に函館へ到着しています。

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1786年(天明6)8月29日

4ツ時、郡中大風吹く 浜村にて20軒倒壊

この時、大風雨となり、藩主の船も損傷を受けました。御札所付近では床まで水が上がり、家や瓦が吹き飛ばされました。この風雨は「軍風」とも呼ばれたと伝えられています。

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1864年(文久4)8月晦日

藩、去る21日、松平(毛利)大膳大夫征伐に将軍進発の節、藩主、御供左右備えの仰せを蒙らせられるにつき、東西村々承知致すよう達する

この時の藩主牧野誠成は将軍の警護にあたり、9月10日には幕府の奏者番に任命されました。

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1941年(昭和16)8月31日

舞鶴線東舞鶴・東舞鶴港間の営業を廃止し施設を市に譲渡

舞鶴鎮守府の要港部の格下げによる新舞鶴町の経済的損失を打開するため商港転換が図られ、大正13年に町請願側線が設置されました。鎮守府が復活すると廃止され海軍専用側線となりました

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