2025年X掲載、『舞鶴市史』年表を中心に
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1951年(昭和26)9月1日
舞鶴線中筋信号場、真倉駅と改称
昭和18年3月15日、舞鶴市会は、国鉄舞鶴線の中筋信号場(昭和4年6月設置)を、時局に鑑み旅客・小荷物・貨物を扱う駅とし、名称を「真倉駅」に変更してほしいと鉄道大臣宛に請願を議決しました。
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1218年(建保6)9月2日
僧弁円、満願寺(字万願寺)本尊寄木造十一面観世音菩薩坐像(市指定文化財)を造立する
「丹後国加佐郡旧語集」によると、この観音は大和長谷寺の観音像を彫る際に余った木を用いて刻まれたもので、長谷の観音の一体分身とされています。
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1958年(昭和33)9月3日
日ソ定期船明治丸(飯野海運(株)所属)舞鶴港に初寄港、9・4ナホトカ向け出港
同年6月、日ソ間で日本諸港とナホトカを結ぶ定期航路に関する協定が締結されました。明治丸(2,219トン)はリンゴ13トンとソ連・欧州向けの郵便251袋を積み出港しました
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1656年(明暦2)9月4日
高広の上訴を取り扱った幕府実力者井伊直孝、保科正之、高広、高直を出頭させて双方に和議を命じ、高直が田辺を領地すべしと申し渡す
京極高広は、分家の高広が田辺城を再興し居城とするのは不当であるとして、幕府に上訴しました。
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1950年(昭和25)9月5日
由良川筋北部6か村、合併研究委員会開催
各村(岡田3ヶ村・八雲・由良・神崎)から5人ずつが出席し、八雲小学校で会を開きました。しかし、それぞれの利害や舞鶴市への編入、岡田3ヶ村だけでの合併など意見が分かれ、会は打ち切りとなりました。
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1938年(昭和13)9月6日
舞鶴市、戦没者合同市葬執行(明倫校講堂)
明倫校では、8月30日に応召兵の武運長久祈願祭が行われ5年生が見送りに、9月1日には応召兵を見送りました。4日には真名井通りで遺骨を迎え、6日には10柱の合同市葬が実施され、児童代表5名が参列しました
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1958年(昭和33)9月7日
引揚船白山丸、真岡より舞鶴入港をもって集団引揚げ終了
この時の引揚者は350人でした。昭和20年9月に舞鶴港が引揚港に指定されてからの13年間に、346隻の引揚船が入港し、合計662,982人が上陸しました。
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1860年(安政7)9月8日
藩、蔵米取扱い、昨年1回町方5人の者に指示したが、当年より制度変更し取扱い世話を免じ、各自勝手に入札するよう指示した。他所者、諸商人でも13日より産物会所で入札すべきことを達する
年貢米が昨年より3000石減少したための措置と思われます。
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1947年(昭和22)9月9日
市議会、都市計画調査委員会を設置
20日の委員会では都市計画全般の審査が行われ、疎開跡地の道路問題についても十分に検討することが確認されました。この疎開は戦時中の建物強制疎開によるもので、市と地元が対立していましたが、昭和33年9月に解決しました。
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1950年(昭和25)9月10日
市議会議員団、解散請求反対声明を発表
この解散請求は東西分離問題に関するもので、11日には市議会解散請求署名が有効数2万3627人となり、法定数1万6368人を上回りました。12日には、市選管に対し解散請求は違法であると意見書が提出されました
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1411年(応永18)9月11日
丹後国棟別銭(棟別一疋)、東寺造営要脚として宛て課される 上430
社寺造営の諸役は、鎌倉後期には幕府を通じて守護が徴収するようになりました。室町幕府も継承し、守護に徴収を命じています。この棟別銭は、丹後守護一色義範によって実施されました
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1756年(宝暦6)9月12日
藩、一揆頭取の者の裁許済み、この日東西大庄屋・庄屋・年寄にその決定を通知、打首3人、獄門5人、追放24人
この内7人は上福井村で、宝暦一揆の中心を担っていました。上福井では周囲の村々を誘ったとして過料500文を科せられた者も6人いました
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1862年(文久2)9月
職人町、魚屋町向かい大手の堀沿いに移転させられる 参勤交代制度の緩和による江戸藩士たちの帰国でその屋敷地を確保するため
移転当時、職人町にあった祈祷所延寿院も竹屋町尻に移転させられました。
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1946年(昭和21)9月14日
舞鶴市教員会を改組し舞鶴市教員組合(舞教組)結成
前年の12月6日に舞鶴市教員会が発足しました。翌年6月の理事会では、教職員の教養向上と生活権確保を目的に労働組合を結成することを正式に決定しました。
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1655年(承応4)9月15日
京職牧野親成、京都より出す奉書の連署すべしと仰せつけられる
前年11月に京都所司代へ就任した親成は、この年の6月には江戸に参府し、8月1日に日光山に参拝しました。その後の26日に与力50騎と同心100人が附属されたうえでの指示でした。
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1581年(天正9)9月16日
信長、藤孝の水軍が伯耆国まで出撃して敵船65艘を沈め、敵兵を打ち破るなど比類ない働きをしたことを賞する
松井康之の軍は、鳥取城救援の吉川元治を牽制するため、伯耆泊城まで攻め入り敵を討ち取り、大崎城からの反撃を追い崩したと伝えています
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1710年(宝永7)9月
桂林寺住職霊重著「丹後田辺府志」(全3冊)、京都の出雲寺和泉掾より版行
執筆の目的は、細川幽斎が丹後に入国してまだ100年しか経っていないが、その間の出来事がほとんど伝わっていないことを遺憾に思い、史料を後世に残そうとしたことにあります。
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1811年(文化8)9月
藩、切畑は以前から制禁であるが、いま畑を潰すと難渋者も出るため用捨し、代わりに堤防普請手当として村々桐実高の30歩1を暮に上納するよう達する
この触は宝暦10年にも出され、近年川の土手切れや田畑への砂の流入が増加したことに対する措置でした
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1910年(明治43)9月
由良村・神崎村の製塩廃止
明治38年6月に塩の専売制、明治43年4月には製塩地整理法が施行されました。その結果、神崎村の107製塩場(従事者174人、約13町、生産高1万9000斤)と、由良村の88製塩場(112人、約3町、349斤)が廃止されました。
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1945年(昭和20)9月20日
府商工経済会舞鶴支部、産業経済復興協議会開催
この協議会では、市内各界の代表30余人を新舞鶴国民学校に招き、舞鶴港を経済港として通商・工業を基盤に復興をはかり、人口20万人を目標とし日本海沿岸の重要都市に育成する方針を確認しました。
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676年(天武天皇5)9月21日
新嘗祭の両斎国に、悠紀は尾張国山田郡、主基は丹波国訶沙(加佐)郡が卜定される
この『日本書紀』の記事は、加佐郡の初出を示す文献です。新嘗祭に供える神饌用の稲を両斎国から供進するよう神祇官が卜定した奏文です。
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1954年(昭和29)9月22日
市議会、西地区13議員から加佐郡北部5か村合併議案を提出
6月22日に5ヶ村が編入を申請し、7月3日には岡田上村も加わりました。しかし市議会では賛否が対立し、9月12日岡田上村は撤回を通告しました。その後、17日に再び5ヶ村が申請を行いました。
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1219年(承久元)9月23日
僧鏡円以下23名、阿弥陀三尊、三所権現の霊地であり「無縁の霊場」である志楽荘内の西願寺に、仏聖灯油料として田110歩、畠250歩を寄進する
署名した23名には名主層が多く、西願寺は、春日部村の総鎮守の役割を果たしたと思われます。
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1852年(嘉永5)9月24日
藩、内海の浜辺にて蛸取り多く吉原町魚漁稼ぎに差し支え難渋の趣につき、海辺地先村々は格別、脇村の者は蛸取り禁止と達する
享保16年成立「加佐郡寺社町在旧記」によると、他にサヨリ、アンコウ、サワラ、カレイなどが記されています
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1844年(天保15)9月25日
藩、鉄砲は重い御制禁につき、前々より厳しく改めのうえ御免あるもの外は隠し鉄砲所持し、別して鳥殺生することは取締りのため去卯年に制法を立て触れたが、心得違いの者もあるように聞えるので、また改める。
前年12月に出された触でした
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1894年(明治27)9月26日
四所村字新宮を廃し同村大字喜多及び同下福井に分属
由良村出身の新宮涼庭は、天保10年に京都東山に順正書院という学問所を建てました。書院の維持のため家老牛窪のすすめにより、喜多・下福井村の山を崩して埋め立て新田を作り新宮村としました
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1953年(昭和28)9月27日
舞鶴海上保安部巡視船、舞鶴-小浜、宮津間緊急輸送(国鉄小浜線、宮津線不通)
台風13号の被害による国鉄不通の対応です。東西舞鶴間の道路の復旧工事は9月26日からはじまり、白鳥線が警備隊員、消防署員らの不眠の活動で翌日には開通しました。
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1945年(昭和20)9月28日
舞鶴はじめ10港、引揚港に指定される
日本政府は9月「邦人引揚計画」「引揚応急援護要綱」を決定し、引揚民事事務所を開設しました。舞鶴の他、浦賀、呉、下関、博多、佐世保、鹿児島、横浜、仙崎、門司が指定され、受け入れ準備を進めました。
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1864年(元治元)9月
藩、稲痛見分を願えば畔刈り3株以外刈取りしなかったが、立毛側稲が雨天続きに痛み稲同様になり難渋なので立毛分の刈取りを許可、免合引高田の位に引き当て下見をして願うよう達する
各村には稲草帳という田1枚ごとに品種を把握する帳簿がありました。
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1899年(明治32)9月30日
第1回加佐郡会選挙、28人選出
最初の選挙の後に役員選挙が行われ、初代議長は木船衛門、副議長は由利儀兵衛となりました。明治43年には余部町の人口増加により定数が1人増えて31人となり、大正4年には新舞鶴町の増員で32人となりました。