2025年X掲載、『舞鶴市史』年表を中心に
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1944年(昭和19)10月1日
海軍機関学校、海軍兵学校舞鶴分校となる
昭和19年の勅令により、兵科・機関科の区別が撤廃され海軍兵学校分校となりました。この時の分校の長である監事長兼教頭日高為範少将は、機関学校25期生です。1年後の昭和20年9月30日に廃校となりました。
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1737年(元文2)10月2日
英成、致仕して暁覚と称する
牧野明成、父英成の致仕により襲封、牧野氏第4代藩主となる
暁覚は寛保元年(1741)9月19日、71歳で田辺にて亡くなり、倉谷山東山寺に埋葬されました。法名は徳樹院殿一誉輪紅暁覚宗山大禅定門です。
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1949年(昭和24)10月3日
大連から山澄丸入港、以後中国からの引揚げ中断
この時の引揚者は1734名でした。この10月には、山澄丸以外の引き揚げ船はナホトカより入港しました。11月27日には山澄丸はナホトカより入港し2000名が引き上げました。
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1963年(昭和38)10月4日
東舞鶴真珠養殖漁業生産組合設立
真珠養殖は昭和28年、三重県鳥羽から母貝を購入して吉田で始まりました。本格化したのは昭和38年で、年間12〜13万個を生産し、昭和46年度には湾内の4組合によって27,170匁の生産がありました。
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1945年(昭和20)10月5日
全日本海員組合舞鶴支部(字魚屋)設立
この組合は、戦後初の労働組合として発足しました。船舶職員や普通船員、航海・機関・通信・事務部門、貨物船や漁船、湾内・港内で働くすべての船員を対象とし、4万人余が参加する個人加入の労働組合でした
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1956年(昭和31)10月6日
内外防衛施設関係都市議長協議会(現全国市議会議長会基地協議会)発足、舞鶴市役員市となる
この組織は、基地交付金の増額要求運動や基地騒音問題(大和市)への取り組みがありました。発足当初から横須賀市議長が会長を務めました。
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1614年(慶長19)10月7日
高知、京極忠高、森忠政、田中忠政らと江戸城修築終わり駿府へ参って家康に謁する 家康、速やかに帰国して出陣の用意を致すべしと仰せつける
高知は、3月に江戸城修築の命を受けます。10月1日家康は大坂攻めのため諸大名に出陣を命じます。
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1655年(明暦元)10月8日
牧野親成、将軍家綱の朝鮮通信使引見において、江戸城大広間西の縁に束帯して着座する
この時の通信使は、4代将軍徳川家綱の就任を祝うために来日した使節で、総勢488人でした。正使は日光にも参詣し、牧野親成は京都所司代として参加しました。
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1522年(大永2)10月9日
桂林寺絹本著色仏涅槃図(当時丹後国分寺什物、市指定文化財)、施主国富右京亮信真、絵師窪田又次郎統泰、表具師式部卿周芳によいり調製される
この涅槃図は、宮津珠光庵にあったものを、細川忠興が田辺籠城戦後の慶長5年10月に寄附したとあります。
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1965年(昭和40)10月10日
市民体育祭(第1回)開催(字余部下、海上自衛隊舞鶴地方総監部グラウンド)
運動会形式で2300人参加しましたが、第3回から一般社会人の部として野球・ソフトボール・バレーボール・バドミントン・テニス・軟式庭球を市内14会場で開催しました。
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1909年(明治42)10月11日
新舞鶴郵便局、電話交換事務開始
明治34年5月に東舞鶴郵便電信局が開設され、電信事務が始まりました。電話交換は磁石式で、電話機のハンドルを回して発電し、交換機へ呼び出しを知らせていました。当時の加入者は新舞鶴町164、余部町59でした。
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1945年(昭和20)10月12日
舞鶴鎮守府、軍港諸規程廃止を関係各方面へ通知
鎮守府参謀長から、舞鶴軍港細則他8件の規程が11日付で廃止されたとの通知がありました。これにより舞鶴軍港はすべての活動を停止し事実上の廃止となりました。
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1919年(大正8)10月13日
新舞鶴町会、海軍職工住宅不足解消のため町営住宅(家屋110軒)建設決議
この動きは海軍の施設拡充によるもので、この時代としては珍しい住宅建設でした。敷地は100坪、予算は10万円でした。
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1951年(昭和26)10月14日
舞鶴信用組合、信用金庫法により舞鶴信用金庫に改組
明治42年2月、地元に本店を置く金融機関の必要に迫られ、宮津信用組合を模範として設立されました。支店は由良、真名井、岡田他に開設されましたが、2002年に京都北都信用金庫と合併しました
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1948年(昭和23)10月15日
市、加佐郡各村、農業共済組合(17組合)(10、15~12、24)設立
農業共済組合は、前年の農業災害補償法に基づき組織されました。舞鶴では東・西・加佐地域に統合されましたが、昭和38年経済情勢の変化で運営困難となり一元化し市へと委譲しました。
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1948年(昭和23)10月16日
舞鶴築港記念碑(字南田辺)建立(24、4、16除幕式)
昭和4年に着工した舞鶴港の第二期修築工事は、昭和13年3月に完工しました。工事従事者は延べ37万380人にのぼりました。その結果、3,000トン級船舶が繋留できる岸壁400メートルが完成しました
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1608年(慶長13)10月17日
荒木孫左衛門尉夫婦、逆修のため石灯籠を浄土寺(字西)に寄進する
この石灯籠は、凝灰岩製の六角形で、高さ270センチです。近世初頭のものは、見樹寺の元和6年8月12日、横田清左衛門忠次奉納の八角形、元和8年8月の八角形のものがあります。
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1925年(大正14)10月18日
加佐郡教員会発会式
加佐郡教員会には体育部もあり、昭和2年4月10日に設立されました。事務所は明倫小学校内に置かれていました。昭和9年には、郡内を東・中・西の3部に分け、教員対抗の競技会を年1回開催しています。
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1945年(昭和20)10月19日
舞鶴海軍復員収容部、平海兵団跡に検疫所開設
このほか、引揚邦人の収容所は森・上安の両海軍工員宿舎跡に、朝鮮人の収容所は天台・伊佐津の両海軍工員宿舎跡に、陸海軍関係帰還者の収容所は舞鶴海兵団跡を使用することに決まりました。
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1940年(昭和15)10月20日
京都府漁連舞鶴共同販売所新築工事竣工
共同販売所は、水産物委託販売斡旋所を引き継いだもので、漁獲物の販売を統制するため昭和9年に設置されました。吉原水産、丹後水産、新舞鶴魚市場など8か所の仲買組織を府の水産業会が買収し統合しました
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1814年(文化11)10月
心学者大守八郎左衛門、田辺求心舎・立敬舎及び領内各地にて道話を行う
大守は、大内町舎で1~7日まで滞在し、9日からは引土、由良川筋を順に西方から東方へと巡りました。その後、求心舎・立敬舎で7日ほど道話を行い、11月3、4日頃に帰京しました
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1922年(大正11)10月22日
府会、加佐郡立高等女学校、同蚕業学校を府に移管決定
この府への移管問題がようやく解決し、卒業生たちは母校の将来を祝って提灯行列を行いました。
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1899年(明治32)10月23日
大谷派本願寺説教所(現真宗寺)、余内村字余部上に設立許可
同寺には、軍港工事を請け負った吉田組の工事中に亡くなった人夫64名を祀る鎮魂碑があり、翌明治33年11月、伊藤雋吉海軍中将の撰によって建立されたとされています。
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1579年(天正7)10月24日
明智光秀、安土城で信長に謁し、丹波、丹後国の平定を復命する
光秀ら織田軍の進攻により、天正6年4月園部城、翌7年5月八上城、8月黒井城が落城しました。9月羽衣石城主南条氏が信長に通じ毛利氏から離反し、三丹地方への毛利の支援は絶たれます
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1815年(文化12)10月25日
藩、領内の素人医者や他者者・西国六部・風来者が、猥りに病人を療治して過ちをする者もあるので不埒である この度、坂本卓蔵ら3人へ在町医者取締掛りを命じ吟味させ、療治を差し止める旨達する
取締掛りは、坂本他、吉田玄倫、奥村東叔でした
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1501年(文亀元)10月26日
願主下岸、觀音寺に石灯籠(市指定文化財)を造立奉納する
昭和4年版『京都府史蹟名勝天然記念物調査報告』には、石工の棟梁とみられる「大工兵六」と刻まれていたとありますが、風化が進み、下岸や兵六の文字は判読が難しくなっています。
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1351年(観応2)10月27日
三宅左衛門太夫入道、志楽荘春日部村に乱入して濫妨狼藉を働き、幕府、守護仁木頼彰に対して三宅を荘内から追い出すよう命じる
春日部村の雑掌・範盛の訴えによるもので、観応の擾乱の影響を受け、体制側から「悪党」と呼ばれた人物とみられます
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1961年(昭和36)10月28日
市、安全都市宣言を行う
この宣言は、産業経済の発展にともなって増加した火災や交通事故、疾病、犯罪、産業災害など、日常生活を脅かす災害をなくし、平和で明るく住みよいまちづくりをめざすものです。近畿地方では初めての宣言でした。
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1670年(寛文10)10月29日
当藩牧野家臣団中の知行取は99人、その知行高1万6440石である
牧野氏の入封時には地方知行制が廃止され、俸禄制へと移行しました。このとき家臣99人に対し、1万6440石のうち四ツ五分(約45%)にあたる7398石の現米が支給されました。
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1964年(昭和39)10月30日
市老人クラブ連合会結成
今年2月、舞鶴市老人クラブ連合会は、創立60周年を記念して「みんなのつどい演芸大会」を開催しました。65歳以上の人口は、1975年の9,592人(全体の9.8%)から、2020年には25,438人(32.5%)へと大きく増加しています。
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1948年(昭和23)10月31日
市内公立高等学校再編成、府立西舞鶴高等学校、東舞鶴高等学校設立
西地域では、西舞鶴高等学校と西舞鶴女子高等学校が統合され、東地域では、東舞鶴高等学校・東舞鶴女子高等学校・舞鶴市立中舞鶴女子高等学校が統合されました。
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