2025年X掲載、『舞鶴市史』年表を中心に
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1572年(元亀3)11月1日
本願主上羽家重、倉内久守、倉内清真および末寺、施主となって海臨寺梵鐘を寄進する
海臨寺は、曇翁源仙が田井浦に庵を結んでいたところ、信者が集まって建立された寺院です。建立時期は、鎌倉時代末期から南北朝初期にかけてと考えられています。
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1871年(明治4)11月2日
府県統廃合により、豊岡県、福知山、舞鶴、宮津、峰山、久美浜、篠山、柏原、出石、村岡、生野の10県を合わせて県域とし、県庁を豊岡に置く
舞鶴を管轄していた豊岡県は、明治9年8月に廃止され、京都府と兵庫県に分割されました。
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1810年(文化7)11月3日
藩、在町の者、城内徘徊が猥りになったので、今後商人男子は何町何屋誰、何村誰と木札に書きつけ、尋ねられれば右札差し出すことを達する
木札は、藩への年貢米納入の際、米主や米改者を記すため、異国船対策として出役する際にも使われました。
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1959年(昭和34)11月4日
第1回舞鶴労働学校開設
京都府と舞鶴市は、労働者と使用者の相互理解や労働関係の知識普及を目的に開校しました。講習内容は労働・政治・経済・時事・文化などで、のちに一般市民に対象を広げ、昭和60年度からは舞鶴労働市民大学と改称しました。
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1813年(文化10)閏11月5日
藩、村々上納米不足銀納の分、当閏11、晦日限りの値段で納入するよう達する
11月には、文化4年以来の不作により借財がかさみ、年々の利息だけでも米1万俵余にのぼると報告されました。こうした背景のもとで出された指示と考えられます。
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1927年(昭和2)11月6日
加佐郡連合婦人会発会式
この式は、会員1,000人が参加し、明倫小学校講堂で開催されました。この会は京都府連合婦人会に加盟するため郡内各町村婦人会によって組織され、会員相互の親睦修養を深め、地域生活の改善を図ることを目的としていました
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1857年(安政4)11月
藩、在町にて食物になるものは多少によらず貯え、相応暮す者に津留中でも買入米御免とし囲穀するよう達する
これに対し、天保11年3月、竹屋町船主油屋久兵衛が、天保7年以来他領からの買入米に格別の働きをしたので、木履御免の栄が与えられました
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1935年(昭和10)11月8日
舞鶴町外5か村合併連合委員会を組織
この合併は、舞鶴町が港湾修築による貿易推進や工業化を目指したことに始まります。しかし町域が飽和し、施設計画を近郊に広げる必要が生じ要望することになり、周辺村も不況打開策として合併へと進みました。
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1646年(正保3)11月
藩、これより先、領内村々を池之内組他、八大庄屋組に編成、この月、各組大庄屋を任命する 大庄屋給米1人当たり年間米6石、村高100石につき米1斗4升1合7勺4才ずつ徴収してこれに充てる
京極の政策は、牧野氏に交代した後も引き継がれました。
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1952年(昭和27)11月10日
警備隊舞鶴地方隊総監部、旧舞鶴水交社(字余部下)へ移転
11月22日に開庁式が行われ、組織の整備が進められました。12月には舞鶴練習隊が新たに編成され、旧舞鶴海兵団を営舎として新隊員の基礎訓練を開始します。
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1934年(昭和9)11月11日
加佐郡中部地方連合唱歌会開催(府教育会加佐郡部会主催、明倫小学校)
明倫小学校の児童は、昭和6年8月21日、大阪放送局主催の近畿二府三県学童唱歌会放送に出演しました。会場は京都物産館樓上の京都演奏所で、現在の京都駅前にありました。
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1964年(昭和39)11月
旧舞鶴鎮守府庁舎(字余部下)老朽化により解体
鎮守府庁舎は、終戦後も昭和27年6月まで接収が続き、解除後は大阪財務部舞鶴出張所の管理下に置かれました。
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1811年(文化8)11月13日
藩、腰林(民有林)の伐木は村役人が吟味の上、その代銀の15歩1を銀納するよう達する
領内での販売は許可制となりましたが、用材・竹材・薪などを他領へ持ち出して販売することは厳しく禁じられました。
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1733年(享保18)11月14日
藩、年貢未進をめぐる村勘定を不満として訴え出た、上与保呂村百性14人を不届千万として、その妻子とも49人を追払い処分とする
享保の一揆後に起こったこの一件は、願いの筋が立たないとして処罰されました。
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1411年(応永18)11月15日
沙弥見智、田辺八幡宮に「天地長久、御願円満、殊当家御繁盛、子孫安泰」のため田1反10代を寄進する。
この田辺八幡宮は、桂林寺(洞林寺)にあったものです。当家とは、見智の主人と考えられる阿波国守護細川義之か子満久と推定されています。
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1953年(昭和28)11月
郡是製糸(株)舞鶴工場、縫製事業停止閉鎖
郡是工業は、終戦により軍需工場を解除され、蚕糸業に復帰しました。舞鶴工場は海軍衣料の縫製をしていたため、昭和21年3月、250台のミシンを増設し、200人の縫工員を募集し、縫工工場として再開しました。
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1371年(応安4)11月
春屋妙葩、南禅寺三門破却事件に抗議して、嵯峨勝光庵からかねての所領であった丹後国余戸里に隠棲し雲門寺を開く
応安2年の破却事件は、比叡山と南禅寺の争論で起きました。細川頼之は当初南禅寺を支えましたが、比叡山を恐れて破却を認めました。
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1820年(文政3)11月
池之内組、境谷村切山裾に同組囲蔵を完成する
他の組では、祖母谷組は大森の宮東木陰、志楽組は田の口境内、大浦組は平村八幡の森、川口中組は油里村、中筋組は引土氏神、町方は島崎稲荷境内に設置されるなど、神社を中心に多く設けられていました。
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1919年(大正8)11月20日
京都監獄舞鶴出張所竣工
7月に舞鶴区裁判所へ予審を扱う支部が開設され、あわせて監獄出張所の新設が決まりました。敷地は裁判所に隣接する1500坪で、建物は宮津分監獄の監房を移築したものです。7月に起工し、工事費3,269円で完成しました。
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1881年(明治14)11月
府、京都・宮津間車道開削工事に着手(明治22・8完成)
この車道は京都から福知山、河守、志高、大川、由良、長尾峠、栗田、栗田峠、宮津に至るものでした。沿道の町村は府へ人夫を提供し、総工費318,610円(うち国庫補助8万円)でした。
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1940年(昭和15)11月22日
海軍工廠和田第2工員宿舎用地(東舞鶴市字和田)買収について海軍側、地主側双方交渉整わず
当時、田1坪の平均価格は9円で飯野商事は9円50銭、東舞鶴市は10円50銭で購入していました。しかし海軍は6円32銭という低価格を提示したことが原因でした
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1847年(弘化4)11月
藩、京通い日雇は天保13年改革で仲間解払いになったが、同14年人別120人・御荷物20人定めて印札を渡した。近ごろ登り魚荷を仲買より買い受け自分荷物にして京通い日雇が1人もなく御用に差し支えた。今回、魚荷物通いの者も京通い日雇に申しつけた。
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1904年(明治37)11月24日
阪鶴鉄道連絡船(海舞鶴駅、宮津間)橋立丸運航開始(1日1往復)
阪鶴鉄道は同月、大阪―新舞鶴間を開通させ、鉄道と若狭・丹後地方を結ぶため海漕業の兼営認可を受けました。それ以前の舞鶴では、宮津―舞鶴―敦賀間に連絡船が就航していました。
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1867年(慶応3)11月25日
藩、銀札払底につき12月~来1月中、100匁銀切手を通用さす旨達する(慶応4年1月22日切手通用延期、同3月16日切手引揚げ、4月中引替え)
100匁という高額の銀切手が出た背景には、外国貿易の開始によって物価が高騰した状況があったと考えられます
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1927年(昭和2)11月26日
舞鶴民衆党結党大会開催(共立会幹部中心)
共立会は海軍工廠の労働者によって結成されました。11月12日の共立会政治部委員会で組織委員会が設けられ、26日には中舞鶴町公会堂で、共立会幹部と町の有志約200名により結党されました。
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1940年(昭和15)11月27日
海軍工廠和田第1工員宿舎及び見習工員寄宿舎(東舞鶴市字和田)竣工祭
和田第1工員宿舎は、総面積8793坪、買収額58521円で取得されました。田・畑・山林を含む土地ですが、海軍は1坪6円65銭で買収しており、第2工員宿舎とほぼ同水準といえます
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1899年(明治32)11月
舞鶴海軍造船廠第1船渠建設工事着手
この建設は予算70万円で明治35年度の完成を目標に計画されていました。しかし、硬い岩盤が多く難工事となり、明治32年5月の落盤事故により数十名の死傷者が出ました。そのため建物の位置が変更されました。
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1865年(慶応元)11月
藩、公儀より往来人改め厳重の指示があり、京街道真倉に関門見張り番所を取り建て、12月1日より諸士以上が詰める。街道筋、他領越えの間道・村道のある村は厳重に守り怪しい者を郡役所へ注進するよう達する
真倉には足軽が常駐する番所はありました
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1861(万延2)11月
藩、桐実・櫨実・楮子を勝手に売る際には会所へ申請としたが抜き売買が発生した。村や多く売る場合はこれまで通り会所へ申し出る。在方小前の売買は買取者に会所の印札を渡すので、印札がないものは売買禁止と達する
特産の桐実は厳しく管理されました
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