12月 まるまる舞鶴 今日は何の日(3)

2025年X掲載、『舞鶴市史』年表を中心に

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1953年(昭和28)12月1日

第1回舞鶴港運営委員会、舞鶴港建設5か年計画を承認

4月、京都府が舞鶴港管理者になることが認可され、諮問機関として運営委員会を設置。京都府、第3港湾建設局、近畿海運局から18委員が出席、予算額7億8000万円の運輸省直轄工事を承認しました

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1957年(昭和32)12月2日

海上自衛隊舞鶴地方総監部、旧海軍兵学校舞鶴分校(元海軍機関学校)に移転

舞鶴分校は、昭和20年10月に連合国軍の兵舎として使用され、各部隊が駐屯し「キャンプ舞鶴」と呼ばれていました。日米安保条約の発効後、昭和30年8月に廃止されました。

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1937年(昭和12)12月3日

京都府漁業組合連合会(府漁連)設立、本部事務所を舞鶴町字下安久(大森海岸)に置く

昭和11年から13年にかけて、各府県で漁業組合連合会が組織されました。加佐郡内でも14の漁業組合が漁業協同組合へと移行し、府漁業組合連合会の傘下に入りました

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1960年(昭和35)12月4日

舞鶴と京都、西大浦間の市外電話即時通話となる

昭和27年に電気通信省が廃止、日本電信電話公社が設立されました。翌年度から昭和32年度の第一次電話施設拡充五か年計画が推進され、「待たずにかかる電話」を目指して施設拡充が進められました。

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1945年(昭和20)12月5日

GHQ、舞鶴地方復員局管業部に商船と掃海従事船舶の修理許可

この修理許可は、施設の使用範囲を許可作業に直接必要なものに限り、運営は民間人に限るという条件付きでした。当時、賠償対象となる可能性がある旧海軍工廠の引き受けは敬遠されました

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1945年(昭和20)12月6日

舞鶴市教員会発足

舞鶴市教員会は、国民学校・青年学校・公立幼稚園の校長・園長、教員・保姆で組織されました。教員会は大日本教育会京都府舞鶴市分会の正会員として、新日本の建設に寄与し、会員の福利増進を目的としました。

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1600年(慶長5)12月7日

忠興、豊前国中津へ向けて出発、与謝峠を越えて丹後国を去る

関ヶ原の戦功により、細川氏は豊前・豊後39万石に加え、同年の丹後の年貢も拝領しました。丹後国を京極高知へ、福知山城を有馬豊氏へ引き渡し、細川氏の丹後支配は21年間で終わりました

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1941年(昭和16)12月8日

郡是製糸(株)舞鶴工場、軍需転換により同舞鶴縫工工場と改称

生糸の割り当てにより、郡是製糸の11工場が軍需転換、売却されました。舞鶴では、第3海軍火薬廠からの薬嚢、舞鶴海軍軍需部からの襦袢、布団シーツなどの縫製を受注しました

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1860年(万延元)12月9日

藩、銀札差支えにつき、当月、来月中、金貨、銀札取り交ぜ通用するよう達する

この背景として、文化11年上納の際に銀札のみでは不便なので金銀貨での上納が認められました。農村で金銀貨が保有されており、幕府貨幣と藩札の併用を認めた措置でした

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1958年(昭和33)12月10日

真壁区有線放送施設完備

昭和34年には、地域住民への連絡用として、岡田中地区と池内地区に国庫補助による有線放送電話が整備されました。その後、電話の普及に伴い、池内では昭和45年、岡田中では昭和46年に廃止されました。

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1940年(昭和15)12月11日

舞鶴市、紀元2600年記念事業として彰古館(舞鶴公園内)建設

この彰古館建設には、有本国蔵が22,300円を寄附しています。有本は、他にも大正11年府立中学の建設費1万円、昭和11年町公会堂建設資金として111,900円と、舞鶴町へ多大の財政的援助を行っています。

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1864年(元治元)12月12日

藩、脱走の賊徒が敦賀辺より乗船した模様につき、怪しい船などを見受ければ急速に注進致すべき旨達する

賊徒とは関東から侵入した天狗党であり、京都へ落ちのびることもあるので、一橋慶喜から抵抗するならば討伐するように指示がありました

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1936年(昭和11)12月13日

時局常識交換座談会開催(福知山連隊区司令部主催、舞鶴高等女学校)

座談会の出席者は、舞鶴重砲兵連隊長他、官公衙長、在郷軍人分会長、学校長、青年団長他250人でした。舞鶴要塞司令官が司会となり、非常時日本の実情、国防充実を訴えました。

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1951年(昭和26)12月14日

舞鶴港、検疫法施行により検疫港に指定

昭和21年以来、舞鶴市は農畜産物の輸出入に対応するため農林省に動植物検疫所の設置を要望しました。昭和23年に輸出入植物検疫法が制定され、これを受け神戸動植物検疫所舞鶴出張所の開設が定められました

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1864年(元治元)12月15日

藩、脱走の賊徒共が坊主または山伏、六部などに姿を変え国々に入り込んだとの風聞につき、怪しい者を見受ければ急速に注進致すよう達する

この触も天狗党を警戒したもので、風聞などに基づき、ほぼ数日おきに発せられています。

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1810年(文化7)12月

藩、畿内・中国の農業を見聞させた桑飼上村四郎右衛門、野村寺村新左衛門に、巡在を申しつけ利得な作り方を知らせるので、各村百姓は庄屋宅へ集まり聞くよう達する

各村に作方巧者がいるはずなので、心当たりがあれば、両人へ伝えるようにと続きます

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1214年(建保2)12月17日

平宗盛の家人源則清の子則種、丹後国より鎌倉に参上し幕府への官仕を許される

源則種は、平氏没落後、平家知行国であった丹後に隠れ住んでいたと思われます。鎌倉幕府成立に、丹後武士の活躍がみえないのは平家方で没落したからだと考えられます

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1809年(文化6)12月

藩、街道ぶちにおける石垣積み・溝掘り・家作は届け出て指図を受けるよう達する

藩は人口増による家屋の増築について、屋敷地は畑地のところ田地をつぶし家作し年貢上納に影響が出るので禁止します。また街道からの雪隠のくみ出しも差し止めています

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1758年(宝暦8)12月19日

多祢寺木造金剛力士像1対2躯(重要文化財)に願主秀範の修理銘文をのこす

この像には運慶作とする伝承があり、丹波市石龕寺山門の金剛力士像(仁治3年〈1242〉、肥後法橋定慶作)に作風が近いとされています。

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1842年(天保13)12月20日

藩、公儀改革につき諸株・問屋・仲間・組合の儀は停止、当藩でも前々より御免の諸職・諸商売株、免札他残らず、今回解き払いとする。在方でも大工・桶屋・紺屋・油屋・鍛冶・石屋・瓦師も同様申しつけることを達する

いわゆる株仲間の解散です。

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1948年(昭和23)12月21日

学校再編成により日星高等女学校、日星高等学校と改称

財団法人聖ヨゼフ学園は、昭和21年4月、上安久の舞鶴重砲兵連隊跡の旧兵舎と敷地の大部分を借り受けて日星高等女学校と幼稚園を開設しました。22年4月には私立日星中学校が創設されました。

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1714年(正徳4)12月22日

大坂天満老松町岡村善八、由良川・加古川直結舟運路開通のための川浚え・道普請・高瀬船通用諸事覚書を、大坂町奉行所に提出する

このルートは宝永7年にも出願されていますが、部分的な開通にとどまり、全ルートの通船は実現しませんでした。

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1937年(昭和12)12月23日

中舞鶴町役場(中舞鶴町字余部下)新築落成式及び飯野寅吉翁(寄附者)寿像除幕式

飯野寅吉は、明治32年に飯野商会を設立しました。戦後には旧舞鶴海軍工廠を民営工場として引き受け、舞鶴の復興に貢献しました。

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929年(延長7)12月24日

渤海使裴璆らが丹後国に来着する

裴璆は3度日本に派遣され、今回が3度目でした。当時渤海は遼に滅ぼされ東丹国となり、この使節として丹後国竹野郡に到着しました。

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1842年(天保13)12月

藩、この度解き払いに申しつけた商売屋のもの、運上・冥加銀は当年分上納に及ばず、相渡しの株札・免札は早々返納申すべきよう達する

いわゆる幕府の株仲間解散令を受けたものです。

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927年(延長5)12月26日

延喜式の神祇、神名(神名帳)、「加佐郡十一座」として奈具神社、伊知布西神社、弥加宜神社、倭文神社、高田神社、大川神社、阿良須神社、笶原神社、麻良多神社、三宅神社、日原神社を記載する

いわゆる式内社の記録です。大川社は名神大社です。

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1346年(貞和2)12月27日

佐々木加地有王丸、余戸里勝浦村地頭職が安堵される

勝浦村は、現在の長浜の小字・加津良付近に比定されています。有王丸は、宇多源氏系の近江佐々木氏の一族で、佐々木秀義の三男・盛綱以降、加地を称した系統に属すると考えられています。

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1847年(弘化4)12月28日

藩、京通い日雇は、先達て書き出した魚荷物稼ぎも京通い日雇と心得ること、日雇頭を免し当分は魚屋、丹波、平野屋、竹屋町年寄を日雇頭心得とするので、鑑札を受け取り指図に従うことをと達する

京通いとは、田邊・京都間の荷物を運ぶ仕事でした

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1794年(寛政6)12月29日

本行寺町(引土新町)出火、桂林寺門前より本行寺まで、両側家数26軒焼失

本行寺大黒堂の鬼瓦は、火事の前年寛政5年の年紀をもち、確認されている中で最古です。瓦には「瓦屋吉岡忠右衛門」とあり、忠右衛門は瓦師として藩に運上を納めていました

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1849年(嘉永2)12月

藩は、旗商いの禁止について、明和年間以来たびたび申し達してきたが、近年とくにその横行が著しかった。このため天保14年には、正米であっても領分外への他国商いを停止する旨を通達していた。しかし今回あらためて、領分外であっても、従来どおり他国で米を買い寄せること自体は差し支えないこととした。また、大坂市場において諸藩蔵屋敷から出される正米切手をもって買い受ける場合についても、正米に紛れない限り咎めに及ばないとされた。京・大坂・伏見の市場や他国でも、入銀による買付や旗商いなど不正取引は許されず、他国者と馴れ合って不正した場合、吟味のうえ処罰することを達した

旗商とは、正米(現物)を伴わず、相場の変動を見込んで投機的に売買し、利益を得る取引です。

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1950年(昭和25)12月31日

市営舞鶴会館全焼(宿泊施設4棟、2600㎡全焼)

舞鶴会館は、昭和21年に旧水交分社に設けられ、会員制による文化・社交機関として発足しました。その後、水交分社は舞鶴市の簡易宿泊所へと転用されます。この火事により87世帯163人が被災しました

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