2026年X掲載、『舞鶴市史』年表を中心に
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1337年(建武4)1月1日
荒川義詮、新田義貞が立てこもる越前国金ケ崎城攻めに丹後の勢800余騎の大軍を率いて馳せ向う
これは『太平記』の記述ですが、荒川義詮は当時、丹後の武士を動員できる国大将の地位にあったとみられます。これを守護と考えるかどうかは不明です。
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1891年(明治24)1月2日
「教育ニ関スル勅語」謄本、加佐郡役所に到着し管内各町村役場に配布
明治23年10月に発布されたこの勅語は、ただちに全国の学校へ下付されました。1月2日各町村役場に対して、学校の始業式に合わせて奉読式を執行するよう照会が行われました
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1787年(天明7)1月
城下町左官仲間9人、太子講を結び仲間規約を作る
この太子講では、掛け銭として正月・5月・9月にそれぞれ1分ずつ出すこととされていました。また、当番は煎り豆などを出さないこととし、趣向を凝らす場合には自費で賄うことと定められています。
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1947年(昭和22)1月4日
公職追放令改正により市関係にも該当者が出る
公職の範囲は、地方公共団体の職員や議会議員などへと拡大しました。市役所に勤務する部課長21人の内、昭和12年7月から20年9月までに部課長職にあった15人、町内会長240人の内82人も対象となりました
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1868年(慶応4)1月5日
藩主牧野誠成、大坂へ向け出立、途中で引返し同日中に帰城する
藩は、殿様の帰城について模様次第であり、丹波あたりで騒動があるとの虚説があるが動揺しないよう説明しています。3日の幕府軍の大坂挙兵に関して関係があったのではと考えられます
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1943年(昭和18)1月6日
岡田上村森林組合成立
森林組合は、明治40年の森林法改正により、国土保安や森林荒廃防止を目的とし、さらに昭和14年の改正では、組合による経済事業が認められ設立が奨励されます。これを受け、加佐郡内でも森林組合が設立されました。
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1880年(明治13)1月
舞鶴の旧田辺藩士ら練信舎を設置、金融業のかたわら木工・陶工業(瓦焼)を行う
旧藩士の堤儀右衛門らが中心となりましたが、まもなく倒産しました。明治13年10月には旧藩主が資金を出し金融機関審致舎が設立され、養蚕を主とする商社的な運営をしました
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1838年(天保9)1月8日
池之内組大庄屋、村々に去る飢饉の救い施米有志者を書付で報告させる
施米を行った有志者は5名で、その内訳は、米2斗5升、白米8斗、麦1石、稗1石8斗、銀札1施米有志者は5名で、内訳は米2斗5升、白米8斗、麦1石、稗1石8斗、銀札108匁でした。このほか、囲蔵からの救い米に加え、前年6月に町人有志、8月に大庄屋が施米を行っています
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1861年(万延2)1月
藩士増山丹蓉(守正)、父母追善句集「雙蓮集」を編集し、九起の跋文を得て出版する
この追善句集は、天台寺へ奉額した発句集の抜粋で、宮津や丹波の他、出羽、出雲、伊予、尾張、肥前と日本各地からの句が寄せられました。北村九起は京都の俳人です。
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1941年(昭和16)1月10日
東舞鶴市の町内会発会式(字溝尻、海仁会)
昭和15年9月に、内務省から各府県に「部落会・町内会・隣保会・市町村常会整備要綱」が通達されました。舞鶴市ほか各町村は12月に「町内会設置規程」を告示し、昭和16年の1月1日から施行されます。
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1778年(安永7)1月11日
池之内組村々、今田村青谷山の立山(藩直轄山)での松植えに出役する
藩は植林を継続し、「丹後国加佐郡旧語集」によると、領内の山々に毎年小松を大庄屋一組につき千本ずつ植えるよう指示しました。城の三の丸や外曲輪の土居にも小松を植えています
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807年(大同2)1月12日
加佐郡百姓、洪水の被害甚大なため租・調が免除される
賦役令では、水害・干害・虫害・霜害により稲の収量が減少した場合、国司が実態調査報告書を太政官に提出しました。損害が5分以上は租、7分は租・調、8分以上は租・庸・調が免除されました
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1846年(弘化3)1月
藩、福引き付きと3文以上のせんべいの商いを禁じる
藩はこの時期、倹約を進めており、天保8年(1837)には各種食品の規格や価格を指導しました。豆腐は寸法を二寸八分(約8.5)四方、高さ二寸二分(約6.7cm)とし、価格を銀二分と定めています。
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1663年(寛文3)1月
瑞泰寺第2世歴道上人、故藩主高直の菩提のために梵鐘をつくる、冶工加佐郡住椿甚兵衛
京極高直は1月7日に田辺で死去し、菩提寺の瑞泰寺に葬られました。寛文8年京極氏の豊岡転封により瑞泰寺も豊岡へ移転し、以後は牧野氏の菩提寺見樹寺となりました。
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1952年(昭和27)1月15日
海上保安庁、舞鶴港の船舶航行安全の旨、第八管区海上保安部へ通知
舞鶴港は戦時中、敷設や投下された機雷が多く、入港を敬遠する船舶がありました。機雷の掃海は第八管区海上保安部が進め、舞鶴、宮津、敦賀港の航行安全が通知されました。
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1864年(文久4)1月16日
藩、昨15日藩主上洛につき諸事物静かに致すべきこと、火の元別して入念行き届くよう致すべきこと、領分境近所の村々は怪しい体の者を見受ければ、番人に申しつけ村送りにて領分境へ送らせ申すべきこと、その他を達する
15日、将軍家茂が伏見を出発し二条城に入城しました。
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1836年(天保7)1月
藩、賭的・賭碁・賭将棋など博奕に類することは制禁と文化元年に指示されたが、近来等閑になったので再度役人より申しつけるよう達する
村々では百姓の居宅構えや山岸に的射を設けるのは許可されましたが、その場で勝負を行うことは禁止されていました
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1620年(元和6)1月18日
高知、大坂城修築において玉造口より大手門までと、京橋より靑屋口までの分役を仰せつけられる
この時の修築は、西北国の諸大名に課せられており、京極高知は、玉造口から大手門までと、内郭の西側を担当していました。
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1606年(慶長11)1月19日
高知、江戸城修築を仰せつけられる
京極高知は、同じく京極一族の京極忠高のほか、加藤清正、福島正則、黒田長政、加藤嘉明、細川忠利など、当時の主要な大名とともに修築にたずさわりました。
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1950年(昭和25)1月20日
日出化学工業株式会社舞鶴工場(字倉谷)地鎮祭(旧海軍工廠第二造兵部の一部譲渡)
日出化学は化学肥料の製造を目的として設立されました。港に近く鉄道もあり、原材料の蛇紋岩が豊富で、電力や取水、海軍工廠の建物転用など好条件で選定されました
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1898年(明治31)1月
鎮守府新市街計画(余内村・倉梯村)の道路建設、河川改修方針確定
この計画は、呉軍港の新市街計画を参考に、内務部の土木関係技師と技手が協力して作成し、海軍との協議の結果、完成しました。開鑿道路だけでも3429間(6.23㎞)ありました。
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1964年(昭和39)1月22日
京都府北部都市開発協議会結成
この協議会は、舞鶴市、福知山市、綾部市、宮津市および大江町で設置され、本部は舞鶴市議会事務局に置かれました。これは、前年に制定された近畿圏整備法などと関係しています。
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1581年(天正9)1月23日
信長、明智光秀に対し、京都で挙行する馬揃(観兵式)に出場する人員について指令、丹後国では長岡藤孝男二人と一色五郎が騎乗するよう通知を命じる
一色五郎は、丹後を細川氏と分有しましたが、細川氏に謀殺され最後の一色宗家当主となりました
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1782年(天明2)1月
当月改めの竹屋町内持船、べざい型船200石積1艘、同170石積2艘、同130石積1艘をはじめ、100俵積以下45艘
宮津屋一族がべざい船200・170・130石積各1艘、木屋170石積各1艘、この他39人がとろ舟、はがせ舟、てんと舟、艫ふと、てんまを所持していました
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1599年(慶長4)1月25日
幽斎の薩摩(大隅)国内知行地3000石、越前国府中に替地させられる
細川幽斎は、文禄4年(1595)6月、豊臣秀吉の命により、薩摩・大隅・日向の三か国検地に携わりました。その功績により、大隅国肝付郡内に3000石を拝領しました。
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1865年(元治2)1月
藩、藩主内室厄年につき功徳の思召をもって道普請を心願し、御手元金御下げとなり取調べたところ、京街道筋は格別に通行も多いので、山崎より真倉村までの往還筋が便利の悪い道ゆえ取開くことになったと達し、このことを村役人他へ申し聞かすよう令する
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1937年(昭和12)1月27日
舞鶴鉄工機械器具工業組合設立
政府は、第一次世界大戦後の慢性不況期の大正14年3月、重要輸出品工業組合法を公布し、企業連合の促進を図りました。昭和6年4月には、不況下にある中小工業の組織化を強力に推進するため工業組合法へと改正しました
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1811年(文化8)1月28日
藩、宗門改につき、当年より5か年の間(文化12まで)、改め役人は出郷しない旨を達する
この年以降、宗門改は毎年庄屋宅で実施されることとなり、あわせて5年目ごとには「大改」として藩役人が出張し、大庄屋宅で行う方式へと改められました。
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1811年(文化8)1月
藩、近ごろ他国へ参詣する者が増加している由であるが、これは領内の神仏を疎むことになるし、無益の財宝を費やし父母への孝養を薄くするとして、役人は常々その訳を村民に申し諭すよう達する
札配りは、伊勢や河守御師以外は禁止されました。
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1909年(明治42)1月 公設岡田中消防組発足
1913年(大正2)1月 公設高野消防組発足
1914年(大正3)1月 公設池内消防組発足
岡田中では全村8か字を「いろは」の3部に分け、組員198人、ポンプ3台、高野は組員137人、手押しポンプ5台、池内は、村内を5部に分け組員200人、手押しポンプ5台で発足しました。
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1941年(昭和16)1月31日
田井港沖で貨物船第五御影丸(神戸武庫汽船所属)岩礁に乗り上げ沈没
荒天吹雪のため遭難し、舞鶴海軍防備隊などから成生・木曽が救助に向かい、船長ら22人は救助されましたが、14人は行方不明となりました。
