2月 まるまる舞鶴 今日は何の日(3)

2026年X掲載、『舞鶴市史』年表を中心に

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1961年(昭和36)2月1日

舞鶴水雷調整所、舞鶴補給所、舞鶴工作所設置、海上自衛隊舞鶴地方隊に編入

1998年に舞鶴水雷整備所(1985年舞鶴水雷調整所廃止)、舞鶴補給所の弾薬部門、舞鶴造修所(1970年舞鶴工作所編成替)の火工科が統合され、舞鶴弾薬整備補給所になります。

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1837年(天保8)2月2日

藩、村々の穀物が他村へ出ないよう相互に吟味すること、飯料に余分のある者は融通するよう村役人が申し諭すことを達する(融通米、麦、稗値段石につき札140匁、85匁、50匁)

天保の飢饉の影響で、前年12月には村の保有米調査が行われ、各家の飯米以外を村囲いとし困窮者へ使わすように命じられました。

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1655年(承応4)2月3日

京都所司代牧野親成の弟冨成、兄の養子に命じられたことを謝し奉る

牧野冨成は、信成の八男で、寛永18年(1641)10月、徳川家綱の小姓となりました。承応4年1月、親成の養子となり、明暦2年(1656)11月表奉公を命じられました。

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1957年(昭和32)2月4日

市総合開発審議会(市長の諮問機関)発足

この動きを受けて、市議会は2月14日、正副議長を除く全議員による市勢調査特別委員会を設置し、市の発展を図るための活動を開始しました。

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1802年(享和2)2月5日

藩、10匁偽札が出回るため、同札に改め印を押すこの日より2月19日まで加印

改は、宝暦7年(1757)、天保8年(1837)、嘉永元年(1848)にも行われ、印の色を変えて判別していました。享和改は、青色印で「享和二壬戌改」と文字が刻まれました。

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1893年(明治26)2月6日

鉄道会議、京都、舞鶴間鉄道敷設を許可

京都―舞鶴間は近畿線として採択され、この際に競合していた土山―舞鶴間(山陰・山陽連絡線)は却下されました。これら二路線は、鉄道敷設法により、第1期線に指定され、沿線各地で誘致運動が展開されました。

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1600年(慶長5)2月7日

家康、忠興に大坂の台所領として、豊後国速見郡杵築で高6万石の地を加増する

この加増の理由については、前年に徳川家康と前田利家の不和を調停した功によるとする説と、家康が細川の忠節を見極めるめであったとする説の二つがあります。

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1921年(大正10)2月8日

加佐郡信用購買組合連合会設立

舞鶴町北田邊の郡役所内に事務所を置き、出資金5万3,000円で、新舞鶴信用組合長の西村幸平を代表として設立されました。その後、大正13年に京都府信用組合連合会が設立されたことに伴い、解散して合併しました。

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1582年(天正10)2月9日

信長、甲斐国攻略に長岡忠興と一色五郎の出陣を命じる

この月、木曽義昌を内通させ、諸将に対して甲斐攻略の進路が指定されました。この際、細川藤孝は、丹後国の警固にあたりました。

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1921年(大正10)2月10日

京都府立舞鶴中学校を中筋村字引土に設置認可

府立中学校の建設費は、村ごとに負担額が異なる郡費不均一賦課法が採用されました。その結果、郡長が更迭される事態となり、さらに2月10日の文部省告示による認可を受けて、東部8町村による反対運動が起こりました。

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1940年(昭和15)2月11日

各学校で紀元2600年奉祝旗行列

この日は、朝代神社において紀元節拝賀式および紀元二千六百年建国祭が行われました。午前9時半から旗行列が催され、その後、午後1時より公会堂において奉祝音楽部大会が開催されました。

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1958年(昭和33)2月12日

舞鶴原水爆反対実行委員会、原水爆禁止舞鶴協議会(舞鶴原水協)と改称

広島で開催された第1回原水爆禁止世界大会で、全国規模の反対署名を続けていた原水爆禁止署名運動協議会と世界大会準備委員会が合流し原水爆禁止日本協議会が結成されました。

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1864年(文久4)2月13日

志楽組大庄屋、藩が福来村文左衛門、覚助へ軍用白焔硝製造を申しつけ、焔気ある家々を見回り床下の土を取らせるが、家主に迷惑が及ばないよう承知させる旨仰せ出されたことを達する

当時の情勢により銃砲弾に必要な火薬を製造するためでした。

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1690年(元禄3)2月14日

竜勝寺の本尊阿弥陀如来坐像(市指定文化財)、京都の仏工渡部玄蕃により修理される

朝来市山東町にある野間国清寺の山門守護神である、新宮神社の速玉之男他三神体も、貞享から元禄期に渡部玄蕃によって作られました。

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1803年(享和3)2月15日

牧野以成、初めて将軍家斉に謁する

7代藩主牧野以成は、天明8年(1788)6月、6代藩主牧野宣成の長男として江戸に生まれました。文化元年(1804)に襲封したのち、文化5年・11年・13年および文政元年の各4月に、将軍の名代として日光へ参詣しました。

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1854年(嘉永7)2月16日

川口中組大庄屋、来る21日の大庄屋宅における宗門改につき、諸指示とともに、改め済み悦びとして休日を取ったり、酒迎をしたりしないこと、改め当日は諸商人の立入りを差し止めること、その他を村々庄屋に達する

種物・苗期の販売は黙認されました。

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1903年(明治36)2月19日

吉原漁業組合設立

明治19年に漁業組合準則が農商務省令として公布され、同35年には漁業組合規則が定められました。これに基づき、明治36年に吉原のほか由良・千歳・成生で、37年に田井、40年に大丹生、41年に野原と順次設立が進みました。

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1867年(慶応3)2月20日

藩は、福井藩手船である三本柱の異国形船1艘が難風に遭い帆を損じ修復のため、浦丹生に碇泊したとして、その周辺へ出向く者に対し無礼のないよう申し付ける旨を達しました。

福井藩が所持していた洋式船には、一番丸の他5隻がありました。

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1884年(明治17)2月22日

松尾村、大飯郡今寺村(福井県)境界につき、両府県より内務卿へ伺

明治12年6月26日、青葉神社(青葉山西の峯)の所有をめぐって争論が起こりました。明治21年5月26日には、両村間で争われていた国界および村界の所有権問題が解決しています。

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1946年(昭和21)2月23日

市、秘書課渉外係、土木部及び港湾課設置

渉外係は進駐軍との交渉に関する事務を担当しました。昭和22年8月11日には渉外課が新設され、進駐軍との交渉に加え、終戦連絡事務局との折衝、通訳・翻訳業務、国有財産の処理に関する事務を分掌しました。

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1941年(昭和16)2月25日

東舞鶴市、都市計画空地地区に指定

都市計画空地地区とは、各種建造物がそれ以上密集することを抑制し、防空・防火の観点から理想的な国防都市へ再建することを目的とした方針です。東舞鶴市は、東京、堺に次いで3番目に指定されました。

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1951年(昭和26)2月26日

市議会、学区編成特別委員会設置(城南中学校新築に伴う通学区問題について調査)

城南中学校は、発足当初から校舎を転々としたため、通学が不便となり、父兄の反対もありました。同27年2月27日中学校の通学区域に関する意見書が可決されました。

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1581年(天正9)2月28日

京都の馬揃に、丹後守護一色家当主の官途を名乗る「一色左京権大夫」なる人物が、公家衆とともに騎乗する

一色左京権大夫は、細川右京大夫、細川右馬頭、伊勢兵庫頭に続いて「信長公記」に登場しますが、一色氏の系譜では確認できません。

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1391年(明徳2)2月

願主僧都庚賢、山口神社(字堂奥)に鰐口を寄進する

この鰐口は、昭和8年刊行の『倉梯村史』に記載されています。また、「丹後国加佐郡旧語集」には、山口神社に1445年(文安2)11月21日、勧進聖道仙が寄進した鰐口があったことも記されています。

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1854年(嘉永7)2月

大庄屋中、嘉永元年以来の不作続きで年貢未進が嵩み、異国船の沙汰で農産物は値下がりして御用金の調達が困難ゆえ、分納を嘆願する

村では繭や楮の産物を売却し調達金にあてなければならないが、他国からの取得金も半減し上納はおぼつかないとしている。

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1538年(天文7)2月

武田氏被官粟屋元隆、反乱を起こし田辺に出奔し布陣する

この反乱の背景には、若狭武田氏の相続をめぐる争いがあったと想定されています。また、永正14年(1517)には、丹後守護代の延永晴信と通じた逸見河内守による反乱も起こっています。

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1819年(文政2)2月

藩、百姓の牛の取替えにつき、領内博労との牛売買に口銭差し出し不要、居村・他村の博労に頼み牛売買するのも自由、所有牛を他領へ連れていき売買も自由と達する

領内庄屋は、博労が仲間規定を作り売買を独占しようとしたのに対し藩へ願を出しました。

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1813年(文化10)2月

藩、当年より又また7か年の内(文政2まで)、御用捨が下し置かれる旨を達する

享保一揆後に始まった「免下り」(年貢率の引き下げ)は、当初は5か年の期限でしたが、安永7年以降は7か年とされ、その後も廃藩に至るまで反復して延長されていきました。

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