『倉梯村史』には、「年中行事」という項があり、一般的な年中行事といえる祭礼や行事が月日別に詳しく記されている。しかし、正月には「本月は雪降り多き故縄なひ草鞋作り等の屋内仕事をなして」と、農作業も含めて記していることから、文化10年(1813)の田辺藩領内で実施された「作方年中行事」を基にしていると思われる(「作方年中行事」参照)。1年で行事が一番多いのは正月であるが、成生と同じく、とんどと狐狩りはつぎのように詳しい。
15日左義長(ドンド)の祝
小豆粥に餅を混ぜたものを食べて、松飾りを外して、決まった空地に持ち寄って焼く。児童は火が強くなるを待って、客に観覧してもらった書初めを火に投入し、高く揚るものを学業上達として喜ぶ。この火で餅をあぶって家内一同食べて幸福を祈り、この火で炙を点じて健康を祝う。また、その灰を家屋の四隅に撒いて毒虫除けとする。余部上の「作方年中行事」にも、朝小豆粥とあり、全国的にも小正月として祝う。
14日狐狩りと銭引き
子供が生まれた家では、酒粕を水で解き、それを近隣・知己に配り、組内へは清酒一升に肴一鉢を出す。そして、毎年順番に宿元を決め、夕方より男女老幼が集って飲食し、子供には菓子・果物等を与え、初夜(午後8時頃、宵の口)の頃に竹片を打ち鳴らして、一声高く「わかみやのまつりとて、きつねがへりやしこ」と唱え、道路を巡回し宿元に帰り、夜が更けるまで雑談する。成生では、7歳以上の男子であったが、行永では男女老幼が集まる行事となっている。
また、行永には「銭引き」という一種の賭博の公許のようなものがある。これは、明治時代の抽籤綱のようなもので、長さ3尺(90センチ)位の縄を人数分準備し、各自1厘2厘を出して、籤にあたった者は銭をもらえる。順番に行い、夜明けまで行う。江戸時代、賭博は厳禁であり、藩がなぜ14日行永村に限り許可したか原因は不明である。しかし、深夜まで銭引きを実施した際に、重大・突発的なことが発生し、大村であった行永200戸が一時に駈けつけ、事件を未前に防いだ功績により黙許されたものが慣例となったか。銭引きは近村でも不思議であるが、狐狩りと共に明治維新後は行われなくなった。
賭博に近い「銭引き」は、江戸時代の功績により許可されたという説を提示している。著者の坂本蜜之助は、丹波船井郡三ノ宮村(京丹波町)の出身であり、舞鶴の狐狩りを珍しいものとして記録したと思われる。
出典:『倉梯村史』1933年
十五日は左義長(ドンド)の祝ひ、小豆粥に餅を混じたるものを食して各戸松飾りを撤しそれぞれ最初りの定まりし空地に持ち寄りて焼却す。此の時児童は火勢の盛なるを待ちて予て回礼客の観覧に供せし書初めを投入し火勢のためその高く揚るを以て学業上達の兆なりとして悦ぶ。此の火にて餅を炙りて家内一同頂きて幸福を祈り、此の火にて炙を点じて健康を祝福す。尚その灰を家屋の四隅に撒きて毒虫を除かんとす。特に奇習は前夜十四日の狐狩りなり。先づ子を産みし家は酒の粕を水にて解きたる物を近隣知己に配り又組内へは清酒一升に肴一鉢を出す、而して年々順番に宿元を設けて夕方より男女老幼其所に集りて飲食し、子供には菓子果物等を与へて相興じ初夜の頃竹片等を打ち鳴らして一声高く「わかみやのまつりとてきつねがへりやしこ」と唱へて道路を巡廻し宿元に帰り夜更くる迄雑談に耽る。尚行永村には銭引きとて一種の賭博の公許せらるも異なり。明治時代に車代の用ひし抽籤綱の如き長さ三尺位の縄を人数程造り各自一厘二厘を出して籤を引き当てたる者はその銭を所得する。交る交る行ひて徹宵鶏鳴に至りしと聞く。賭博に一層厳重なりし領主が殊更十四日行永村に限り公許せられたる原因は不明なるも、思ふに嘗て禁を冒して深更に至りし時村内に重大時突発に遇ひ、領内の大村行永二百戸一時に駈けつけて事を未前に防ぎし功により黙許せられしものが慣例となりしものか。十四日の行永の銭引きとて近村も不思議とせざりしが狐狩りと共に旧慣は明治維新後行はれすなりぬ。