舞鶴の山城113 志高城

しだかじょう

・舞鶴市字志高小字館他
・遺構---曲輪、堀切、竪堀、土塁、虎口 ・占地---山頂
・標高---140m ・比高---135m ・遺跡地図番号---114

 この城は志高集落背後の山頂に位置する。田辺から真壁峠、由良川を越えて普甲峠に至る道が中世の本街道と言われており、志高城は志高・久田美の渡しを押さえる街道の要衝にある。

 遺構は主郭の西側を三重の大きな堀切で遮断し、主郭側には土塁を敷設するという厳重な構えである。北側に延びる尾根先に北曲輪があるが、両曲輪は二つの堀切で遮断されている。北曲輪の削平状態は悪く、合戦時に臨時に構築された様子である。また、この北曲輪から尾根を東へ下
ると志高館城へとつながっている。主郭から南東に延びる尾根には六段の曲輪があり、大手道はこの曲輪群につながっている。曲輪群の南側斜面には竪堀を敷設し、通路を狭くして下段の曲輪からの横矢がけを可能としている。曲輪を階段状に構築し切岸により防禦を固めるこの手法は丹後の一色氏方の構築方法と類似している。南東の志高砦との間には堀切と切岸の加工がある。

 「嶽家文書」をはじめとする近世の記録では、城主は三上飛鳥之輔宗室などで、佐武ケ嶽城とかけ持ちともいう。「丹後国惣田数帳」では桑飼あたりと思われる「□□郷(□は破損)」の領主として三上因州がおり、大内庄の領主として三上江州がいる。後者は室町幕府将軍の奉公衆であることが明らかであり、飛鳥之輔との関係が伺える。「一色軍記」は三上宗室は一色氏の家臣であり足利尊氏とともに九州に渡った人々の末だとしている。「郷土誌岡田下」は、地元の山崎姓は当城の典医であった者が、落城後、山崎吉良左衛門と称して帰農した末であるという伝承をあげている。付近に「血の段」という小字があるが、落城の際に人々が切腹したことにちなむという。また、薬師谷に陣屋という地名があり、志高城を攻める軍勢が陣を張ったところだという。

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