たてべやまじょう
・舞鶴市字喜多小字建部他
・遺構---全壊 ・占地---山頂
・標高----315m ・比高---310m ・遺跡地図番号---93
この城は建部山の山頂にあった。建部山は舞鶴湾と由良川との間に聳え、「田辺富士」と呼ばれる美形の山である。かつては「たてべやま」ではなく「たけべやま」と呼ばれていた。近世の地誌類に記された建部山の城主についての伝承は多い。
まず鎌倉時代に足利泰氏が丹後守に任ぜられ、建部山に城を築いて一色氏の祖となったという。また、一色氏が足利尊氏により丹後国を給わった時、一色範光は加佐郡八田に城を築き、これが建部山城であるという記録がある。しかし、これら南北朝期以前の一色氏居城説は近年疑問視されている。その後、丹後国は山名氏に押領され、一色氏は峰山に没落していたが、一色満範が1392(明徳3)年に山名氏を討ち、再び丹後守護として建部山城に返り咲いたのだという。最後に、1578(天正6)年細川藤孝が一色義道が立て籠もる建部山城を攻め落とし、一色氏は弓木城に退いたとしている。
確実な史料として、和知の「片山家文書」に南北朝時代の1357(延文2)年、北朝方武将の片山虎松が竹辺城で南朝方勢力を破ったという軍忠状が残っていることから、このころ南朝方の者が居城したらしい。
このように伝承や記録の豊富な建部山城であるが、明治時代後期の日露戦争により旧日本軍の砲台が構築され、城館遺構は完全に破壊された。現在は要塞のコンクリートだけが残っている。