舞鶴の山城 粟屋状・陣城について

【粟屋状】
 粟屋状はコットイ崎に立て籠もり、敗れて自害した粟屋久慶の十三回忌(1567(永禄10)年)に書かれたとされ、志楽庄在地政所梅垣西浦家に伝わる文書である。内容に疑問点もあるが、当時の戦闘の様子を知る貴重な資料である。


【陣城について】
 陣城とは合戦に際して臨時に築かれる城館である。陣城で有名なものは、賎ヶ岳合戦の時に築かれた羽柴秀吉と柴田勝家方の陣城である。尾根や山頂に土塁囲みの曲輪や削平地が広範囲に広がっている。本来の城館と比べると、限定された戦場に築かれるため、自然地形を曲輪に利用するなど、本格的に地形を加工していない未整形のものが多い。加佐郡の陣城をあげると、№20市場城と№19高屋城がある。

 1554(天文23)年の志楽谷合戦の時、市場城は若狭武田方の逸見氏が陣取り、高屋城は粟屋氏やこれに心を同じくする加佐郡の在地領主が陣取った。市場城は高屋城と相対し、本城である溝尻城の前衛の3ヵ所の峰に小規模の削平地が築かれている。この削平された場所が陣を置いた所である。対する高屋城は市場城とは入江で隔てており、近距離ではあるが、即攻撃される危険性はない。遺構は北尾根上に2ヵ所あり、遺構に連続性がなく、曲輪が点在する。このように加佐郡にみられる陣城は削平地のみの曲輪が点在し、遺構に連続性がなく、求心力を伴わないものである。要するに、展望の良い場所に陣取りをした単純な陣城である。(た)

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