余部上村の「作方年中行事」7月

 Twitter、#太郎左衛門のつぶやき、で記した農作業は、余部上村の「作方年中行事」(井上奥本家文書)を基にしている。太郎左衛門は、余部上村庄屋、文化10年(1813)7月に「作方年中行事」を藩に提出した。余部上村を中心に、西から久田美・青井・大山・成生・野原村の行事と比較し参考とする。また、旧暦なので約1ヶ月遅れの記事で調整した。


7月6日 7月に入っても、田の草取や見廻り、牛の草苅は続く、3日から上納のための麻苧を拵える。麻苧の作業はこれで完成。今日から麦の上肥えとして、下木苅がはじまる。下木は山の背の低い草木で、麦の肥として利用する。久田美でも、下木苅を昨日からはじめたそうだ。

7月7日 今日は休日、墓所の掃除をする。久田美、地頭、桑飼下、大山村も同じ。成生や野原では1日から6日の間に掃除する。いずれも、盆の準備である。また朝草刈といって、8月1日までは、休日でも朝、牛の草を刈る。

7月13日 11日は半日休、田草取は一段落ついた。12日は綿の草取、日中には菜種を蒔く、今日13日はしたきを苅り、帰って掃除をし、晩方には墓所へ灯籠を灯しにゆく。盆に入り15日の晩方まで灯籠灯しは続く。

7月15日 お盆の行事は、昨日と今日が休日、昨日は朝7つ時に先祖の墓参り、それから村で例年の六斎を打った。今日は村内で中元の祝儀を互いに行った。明日16日は昼より寺へ施餓鬼に行く。ただし、盆休みでも草苅、したき苅、田畑の見廻りは続く。

7月20日 この頃より粟を苅ってその後に蕎麦を蒔く。彼岸の15.6日前から蒔く。

少し前に、成生・野原・大山でも、粟・黍・稗を苅って、蕎麦を蒔くそうだ。青井では、21日からころび(桐実)の下苅りをするそうだ。

7月25日 今日は、粟を苅って蕎麦を蒔く他、肥持、灰まき、したきかりがある。村では23日休んだが、野原では晩に愛宕へ火をあげ、愛宕へ参るとのこと。また24日は、浦盆で昼から休み、愛宕講をして愛宕へ参り、青井はうら盆地蔵会、成生や大山は浦盆で休みとのことだ。

7月27日 今日は、田の畦や畑の稗・黍を苅り、蕎麦をまいた。大根を蒔く他、いつもの肥もち、したき苅、田畑の見廻りがある。成生や大山、野原では、24日の浦盆の頃、粟と一緒に稗・黍を刈り取っている。飢饉に対する藩の囲蔵にも、米と一緒に稗が収められている。

7月29日 脇切といって、田の早田・中田・晩田の野稗を刈り取る作業を行った。脇切は8月に入っても続くが、久田美では8月2日から8日頃まで作業するようだ。また、野稗は3年過ても生えてくるので、田の畦や川岸には捨ててはならないと若狭の『農業蒙訓』で言われている。

京都府立大学文化情報研究室・舞鶴地方史研究会「翻刻 作方年中行事・山論・献立・日露戦争」 京都府立大学文化遺産叢書16『舞鶴の地域連携と世代間交流 井上奥本家文書調査報告』160(1)-139(22)頁、2019

原文
七月
朔日 男女共田草取、牛之草苅、田畑見廻り
二日 右同断
三日 田草取、田畑見廻り、女牛之草苅、且又女ハ御上納麻苧拵
四日 右同断
五日 右同断
六日 こへ持、男女田草取、或ハ麦うわこゑ、しだき苅、田畑見廻り
七日 休日、朝草苅、墓所掃除致し、田畑見廻り
八日 こへもち、田草取、田畑見廻り、女ハしたき苅
九日 右同断
十日 右同断
十一日 半日休、田草取、牛之草苅一此時分ニ田草取相済候事
十二日 綿之草取、日中ニ菜種蒔、田畑見廻り、女ハしたき苅
十三日 男女共したき苅、帰りて掃除致し、晩方墓所へ灯籠灯し申候、但十五日晩方迄
十四日 休日、朝七つ時に先祖之墓所参り、朝草苅、田畑見廻り、夫ゟ村方例年六斎打申候
十五日 休日、朝草苅、田畑見廻り、中元祝儀村方互ニ相勤申候
十六日 男女共したき苅、田畑見廻り、昼ゟ寺へせがき参り
十七日 半日休、男女共したき苅、菜・大根蒔、こへ持、田畑見廻り
十八日 右同断
十九日 右同断
廿日 右同断
此時分ゟ粟苅、あとに蕎麦蒔、ひかん十五六日前より蒔候事
廿一日 男女したき苅、或粟かり、あとに蕎麦蒔、こへ持、女ハはいまき、田畑見廻り
廿二日 右同断
廿三日 半日休、右同断
廿五日 粟苅、蕎麦蒔、こゑ持、女はいまき、或男女共したきかり、田畑見廻り
廿六日 右同断、女きび苅
廿七日 男女共あせ稗苅、畑稗并きひ苅、蕎麦まき、大根まき、こゑもち、或男女共したきかり、田畑見廻り
廿八日 右同断、此時分ニ麻苧上納仕候
廿九日 脇切と申て、田方早田・中田・晩田之中野稗切取、男女共綿之しやうやく、或したき苅、田畑見廻り
晦日 右同断

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