余部上村の「作方年中行事」5月

 Twitter、#太郎左衛門のつぶやき、で記した農作業は、余部上村の「作方年中行事」(井上奥本家文書)を基にしている。太郎左衛門は、余部上村庄屋、文化10年(1813)7月に「作方年中行事」を藩に提出した。余部上村を中心に、西から久田美・青井・大山・成生・野原村の行事と比較し参考とする。また、旧暦なので約1ヶ月遅れの記事で調整した。


5月2日 今日は、こへ持、田へ肥やしを入れる。男女ともに厩から肥えを出して、麦田をこなした。肥やしは、灰や油粕をまく場合もある。西の久田美も同じ作業のようだ。
もうすぐ田植えなので、この作業、明日も明後日も続く。
女は他に、牛の草やそら豆、エンドウ豆を苅る。

5月4日 今日は、こへ持の最終日。東の大山では、もう田植えをはじめるとのこと、領内でも早い方だ。
晩方には、しやうぶ(菖蒲)やゑもき(蓬)を屋根に刺す。明日5月5日の節句の準備。昔は御所の行事だったと聞くが、今は領内の多くの村で行なわれている。

5月6日  昨日は節句の祝で、朝早く氏神へ参り、村内を祝の挨拶をしてまわった。
晩から田の井溝を浚えて掃除をし、土の俵を入れて田に水が流れるようにした。
今日は、朝早くから田の畦作り。まず下畦といって牛を使って鋤き、さらに鍬でよく練りながら10回も鋤く。畦は田の外側を高く内側を低く作る。
朝下畦したものは、昼より本畦を行う。女は牛の草苅が終わると、畦ものの大豆・小豆・稗を畦に植える。明日も続く。

5月8日  やっと、田の畦作りが終わり、いよいよ田植えだ。まず山の谷田を晩田であるが最初に植える。また、早田・中田・晩田とあるが、これらは混ぜて植付をする。久田美の方では、植え始めの日を「さひらき」といって、苗2把を洗って明神へ神酒を供えるとのこと。

5月10日 田植えは続き、牛によって田をかき、その後鍬でよくならし、苗を配る。女はその苗を取り、植付を行う。また、麦田は牛のあと鍬にてならし、肥草や厩の肥えを入れ、その後苗を植え付ける。まだまだ田植えは続く。

5月13日  やっと田植えが終わった。8日からなので6日かかった。西の久田美は12~18日、桑飼下12~20日、東の大山は4~11日と聞いている。田植えは領内の東からはじまり西へ向かうようだ。
植え付けが終わったら、牛や道具をよく洗い片付ける。牛には針養生を行う。

5月14日  今日は田植え終了後の「小休」、昼より半日だけ休む。それ以外は、こへ持、牛の草苅、綿や粟の草取、田畑の見廻りを行う。久田美では、植え終わった際に「さのほり」といって、苗3把を洗って明神へ神酒を供えるとのこと。田植えの際の「さひらき」と似ている?

5月17日  昨日まで、あせものの見廻りをして、植え直しをした。こへ持、牛の草苅、綿の草取、大麦の脱穀や田畑見廻りをした。今日から、小麦を苅って、綿・粟・大豆の草取、男は中打をする。そういえば、いまも「さのぼり祭り」をすると聞いた。

5月20日  昨日から、いろいろな作物の中打がはじまる。また、茶摘みや小麦を刈った後の畑を鋤く作業などがある。そして、引き続き田畑の見廻りと、女・子供は牛の草苅が続く。久田美では、今日が田植え後の「小休」と聞いた。

5月21日  今日は一日休日、田の植え付けが無事終わった祝として、小豆・そら豆・エンドウを入れた麦飯を食べる。それでも、田畑の見廻りはしなければならない。なかなか、何もしない休日はない。

西の久田美では、この2回目の田植え休みを「大休」といい24日に行うが、同じく小豆・そら豆・エンドウの入った麦飯を食べる。田の水廻りや畑作の見廻りはあるそうだ。海を越えて西の青井では20日大休、麦の赤飯を食べる。近所だが食事が違う。

東の海沿いの野原では22日大休、男は網引きに海へ出る。若狭に近い成生は20日大休、晩方、女は臼を引き、男は田の蟹を取る。いずれの村も休日だが、どの村も作業は続く。

5月23日  このところ、こへ持、諸作の中打、草取、牛の草苅、田畑の見廻りがずっと続いている。昨日から下人・奉公人が「洗濯休」といって、3日間親の里へ帰っていた。田植え後の休みという感じ。
西の青井では、20日大休の翌日、家来を2日間、洗濯のために宿ヘ返すとのこと。日数は違うが同じようだ。遠江の方では、田植え後にはじめて嫁が里帰りすることを「せんたく」というそうだ。これも同じような気がする。

5月25日 今日から厩こへ出し、大根・胡麻蒔、灰まきがはじまり、明日も続く。
昨日は半日休みだったが、青井・成生・野原・大山では同じく半日休んで愛宕へ参り愛宕講をしたそうだ。大山の愛宕講では壱盃盛の飯を持参すると聞いた。

5月27日  まだまだ、諸作の中打、田の草取、田畑の見廻りは続く。女は小麦・そら豆・エンドウの脱穀もある。雨が降ったら熊手で稲の中打もある。今月いっぱい続く。
この熊手は改良型で、若狭国の伊藤正作という人が「耕作早指南種稽歌」という農書で紹介するほどのもの。4尺の竹の柄の先に鉄の爪をつけている(『舞鶴市史』上)。

京都府立大学文化情報研究室・舞鶴地方史研究会「翻刻 作方年中行事・山論・献立・日露戦争」 京都府立大学文化遺産叢書16『舞鶴の地域連携と世代間交流 井上奥本家文書調査報告』160(1)-139(22)頁、2019

原文
五月
朔日 右同断
二日 こへ持、男女共厩こへ出し、麦田こなし、又ハはいまき、油かすまき、あとよりみぞを斗通つゝ合すき致し、女牛草苅、そら豆苅、えんと
三日 右同断
四日 右同断、且又晩方にしやうぶ・ゑもきをやね江さし候
五日 休日、節句、早朝氏神江参り、村方礼致し、晩方井溝さらへ掃除致、土俵入、水あて致し
六日 早朝あせ拵、先下あせと申て牛ニ而すき、鍬ニ而能練すき十べん通り候ヘハ練候、大鍬ニ而よせ、先向高前ひくによせ、朝致し候分ハ、昼ゟ本あせ致、又女牛草苅帰りて、あせものと申大豆・小豆・稗植申候
七日 右同断
八日 右同断、あせ練相済候ヘハ、弥植付致、先山谷田ゟ植付致、晩田ニ御座候へ共植初に仕候、又段々早
田・中田・晩田与御座候へ共、此儀ハ交込、植付致し
九日 女ハ苗取、田牛ニ而田かき、鍬ニ而能ならし、苗くはり、夫ゟ女植付致し
十日 右同断、且又麦田之儀ハ牛遣候あと、鍬ニ而能ならし、肥草或厩こゑひろ出し、夫ゟ苗みはり、女ハ植付致し
十一日 右同断
十二日 右同断
十三日 右同断、植付相済候
一植付相済候而、牛能洗、牛農道具等能洗、片付致し
十四日 半日休、こへ持、女子共ハ牛草苅、又綿草取、粟草取、昼ゟ小休申、牛に針養生致し、田畑見廻り
十五日 こへ持、あせもの見廻り植直シ致、女ハ牛草苅、綿之草取、又ハ男女共大麦かち致し、田畑見廻り
十六日 右同断
十七日 男女共小麦苅、或綿草取、粟・大豆草取、男中打、田畑見廻り
十八日 右同断
十九日 諸作中打、女子供ハ牛草苅、或ハ男女ちやつみ、小麦あとの畑すき、田畑見廻り
廿日 右同断
廿一日 休日、田畑見廻り、此日は植付無滞相済為祝と、小豆・そら豆・えんどをヲ入、麦飯致
廿二日 こゑもち、諸作中打、女草取、牛之草苅、且又下人男女洗濯休ニ、三日間親里江遣申候、田畑見廻り
廿三日 こへもち、諸作中打、女ハ草取、又ハ牛之草苅、田畑見廻り
廿四日 半日休、右同断
此時分ゟ胡麻・大根を蒔候事
廿五日 厩こへ出し、大根・胡麻蒔、こへ持、はいまき、厩こゑひろ出し、田畑見廻り
廿六日 右同断
廿七日 諸作中打、女小麦かち、或そら豆・ゑん豆かち、雨天ニ而ハ、熊手ニ而稲中打、女ハ田草取、田畑廻り
廿八日 右同断
廿九日 右同断
晦日 右同断

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