郡村誌の情報1 多門院の沿革、範囲、地勢

 郡村誌の内容を、舞鶴市・加佐郡の東、若狭・丹波国に接する多門院村を事例に、本文を引用し隣村堂奥と比較しながら当時の村の実態を説明する。記述内容は明治15~17年と推定する。

丹後国加佐郡多門院(タモンイン)村

①本村往昔高橋郷ノ属ニシテ祖母谷三ヶ村<溝尻・堂奥・多門院>ノ一タリ、前後変換ナシ

②彊域 東ハ丹波国何鹿郡老富村及ヒ若狭国大飯郡関屋上津ノ二村、西ハ本郡堂奥村、南ハ与保呂村、北ハ小倉村ト各山岳ヲ以テ界ス

③幅員 東西二十七町五十間、南北十八町四十間、面積欠ク

④管轄沿革 円満寺村誌ニ同シ

⑤里程 京都府庁ヨリ西北方本村元標ニ達スル凡三十里六町、宮津支庁ヨリ東南方凡九里、四隣東何鹿郡老富村界ヘ二十一町五十二間五分<実測>、西本郡堂ノ奥村ヘ二十一町五十六間五歩<実測>

⑥地勢 闔境山岳囲繞シ中部稍平濶、人家概三部ニ分ル、運輸不便薪足リ炭乏シ

⑦地味 其色赤黒錯雑シ其質下等タリ、全部諸植物ニ適セス只麦ニ宜シキノミ、水利便ナルモ時々水害アリ

註:史料中の<>は割書、()はルビ、○数字は加筆

 まず①~⑦は、村の沿革、範囲、地勢など地理的な項目である。村は、①昔は高橋郷に属し、溝尻・堂奥とともに祖母谷3ヶ村の1つであった。堂奥には「康正ノ頃祖母谷村ト称ス」とあり、康正年間(1455~1457年)、室町時代中期には祖母谷と呼ばれるようである。氏神山口神社の社殿修理の棟札に康正3年とあることから、そのあたりから伝承されているかもしれない(『倉梯村史』)。④沿革は円満寺村誌と同じとあるが、天正9年(1581)細川藤孝の入部から、京極、牧野氏の藩政、廃藩置県以後の舞鶴、豊岡県、京都府への管轄変遷が記される。

 多門院は加佐郡の東端にあり、②丹波・若狭に隣接しており、⑤若狭の老富村まで21町(2・4キロ)、西隣の堂奥村と同じ距離となり中間に位置している。祖母谷とあるとおり谷地形で、⑥村は山岳に囲まれ中央部が平坦で、集落は3つに分かれるとあり、これは村の東から黒部、財木・多門、荒倉の現小字にあたる(「多門院歴史探訪」)。物資の運送に不便で、当時の燃料の薪はあるが炭に乏しいとある。堂奥は薪炭ともにほぼ足りるとある。⑦耕地の地味は、赤土・黒土が混ざり質は悪く、畑に植える野菜類には適さないが麦にはよいとある。堂奥もほぼ同じだが、これに砂礫が混ざっている。水利は祖母谷川があり都合よいが時折水害を受け、堂奥は反対に時々干害に苦しむとある。昭和28年(1953)台風13号水害では、多門院は山津波が発生し、倒壊家屋10戸と大きな被害を受けています(『舞鶴市史』現代編)。

出典 「加佐郡村誌」同32~35、京都府庁文書、京都府立京都学・歴彩館所蔵

参考:東昇「幕末・明治期の加佐郡における桐実生産」『京都の産物ー献上・名物・土産』臨川書店、2023

関連する歴史の人物

関連する人物はいません。

関連するコンテンツ