郡村誌の内容を、舞鶴市・加佐郡の東、若狭・丹波国に接する多門院村を事例に、本文を引用し隣村堂奥と比較しながら当時の村の実態を説明する。記述内容は明治15~17年と推定する。⑧~⑬は、土地・貢租・人口などの基礎統計である。
⑧税地 田<三拾三町四反八畝拾四歩>、畑<四町八反弐畝拾壱歩>、宅地<弐町五反弐畝弐拾壱歩>、山<反別欠ク>、藪地<四畝壱歩>、総計<四拾町八反七畝拾七歩、外荒地六町弐反壱畝弐拾弐歩>
⑨字地 財木<村ノ南ニアリ、東西二町、南北一町四十間>、黒部<村ノ東ニアリ、東西二町五十五間、南北四十間>、ヲソノ口<村ノ東北ニアリ、東西十一町五間、南北五町二十間>、荒倉<村ノ西ニアリ、東西三町十二間、南北一町四十五間>、以上著名ノ字ヲ挙ク余ハ悉ク略ス
⑩貢租 地租<金三百七拾六円五拾七銭八厘>、山税<金九拾弐銭九厘>、総計<金三百七拾七円五拾銭七厘>
⑪戸数 本籍七十九戸<平民>、社四戸<無格社>、寺一戸<禅宗>、総計八十四戸
⑫人数 男百八十七口<平民>、女百六十五口<平民>、総計三百五十二口
⑬牛馬 牡牛一頭、牝牛三十四頭、総計三十五頭
⑧田が33町と畑の8倍あり、堂奥も田40町、畑14町と両村ともに田が多い。⑨字は主なもののみで、堂奥も竹中・谷口の2件である。⑪⑫人口戸数は、79戸・352人、1戸あたり4.5人、堂奥は50戸・370人、1戸あたり7.4人と1戸あたり家族人数が両村で大きく異なっている。家族人数は、加佐郡(現舞鶴市域のみ)平均4.5人となり多門院と同じ、堂奥は郡内最大規模であった。⑬牛は堂奥が16頭で多門院が35頭と倍以上いる。こちらの郡平均は14頭なので多門院がかなり多く、牛耕が進んでいたのか、山の運搬用に利用されたのではと思われる。
出典 「加佐郡村誌」同32~35、京都府庁文書、京都府立京都学・歴彩館所蔵
参考:東昇「幕末・明治期の加佐郡における桐実生産」『京都の産物ー献上・名物・土産』臨川書店、2023