郡村誌の内容を、舞鶴市・加佐郡の東、若狭・丹波国に接する多門院村を事例に、本文を引用し隣村堂奥と比較しながら当時の村の実態を説明する。記述内容は明治15~17年と推定する。⑭~⑱は山川・道路・堤などの環境や施設である。
⑭山 三国ヶ嶽<高凡百七十五丈、周回欠ク、村ノ東ニアリ、嶺上ヨリ三分シ、東ハ何鹿郡元大唐内村ニ属シ、北ハ大飯郡関屋村ニ属シ、余ハ本村ニ属ス、山脈南北ニ連亘ス、草樹交生ス、登路一条、本村黒部ヨリ南折シ字胡麻ヨリ上ル昇リ凡十六町四十二間、嶮ナリ、渓水一条、山間ヨリ発シ、本村ノ田若干歩ヲ養ヒ下流祖母谷川トナル>
⑮川 祖母谷川<深一尺許、巾二間、清ニシテ急、源ヲ本村三国ヶ嶽ヨリ起シ、本村ノ田若干歩ヲ養ヒ西方堂ノ奥村境ニ入ル、長凡十九町十五間>、中嶋橋<架シテ村ノ西方祖母谷川ニアリ、本村ヨリ何鹿郡ニ通ス、長二間半、巾四尺、木製>
⑯道路 村道<東南方与保呂村界ヨリ西方堂奥村界ニ至ル、長二十六町十三間、巾一間>
⑰掲示場<本村東口ヨリ十六町四十八間ニアリ>
⑱堤塘 祖母谷川堤<祖母谷川ニ沿ヒ、村ノ中央字二反田ヨリ西方堂ノ奥村境ニ至ル、長十五町、馬踏一間、堤敷二間、修繕費用官ニ属ス>
⑭山は丹後・丹波・若狭の境である三国嶽とそこから流れる⑮祖母谷川、用水としては若干とあり、木製の中嶋橋がかかっていた。堂奥には森林として後ヶ迫(ウシロガサコ)官林があり、面積2町8反3畝10歩に松1000株、雑木650株とあり、松・雑木林であったと考えられる。⑯道路・堤塘は両村いずれも村道、祖母谷川堤と同じだが、堤の修繕費用の負担は多門院が官、堂奥が官・民と相違する。
出典 「加佐郡村誌」同32~35、京都府庁文書、京都府立京都学・歴彩館所蔵
参考:東昇「幕末・明治期の加佐郡における桐実生産」『京都の産物ー献上・名物・土産』臨川書店、2023