郡村誌の情報4 多門院の社寺・物産

 郡村誌の内容を、舞鶴市・加佐郡の東、若狭・丹波国に接する多門院村を事例に、本文を引用し隣村堂奥と比較しながら当時の村の実態を説明する。記述内容は明治15~17年と推定する。⑲~㉒は社寺・物産である。

⑲社 八幡神社<社地東西六間二分、南北十間、面積六十二坪、村ノ西ニアリ、應神天皇ヲ祭ル、祭日六月十五日、境内老樹繁茂ス>、山神々社<社地東西五間七分、南北十間、面積五十七坪、村ノ西北ニアリ、大山祇神ヲ祭ル、祭日十一月九日、境内老樹アリ>、天藏(アマクラ)神社<社地東西四間、南北四間、面積十六坪、村ノ南ニアリ、天香語山命ヲ祭ル、風土記高橋郷条下ニ云、天香語山命於倉部山尾上創当神庫以収蔵種々神宝設長梯而為到其庫之科故云、高橋今猶峰頭有神祠称天(アマ)藏祭天香語山命ト、祭日一月七日、境内老樹雑木アリ>、多聞神社<社地四履欠ク、面積八十一坪、本村字多門ニアリ、猿田彦神ヲ祭ル、創建年代及ヒ由緒詳ナラス、境内末社一座アリ>

⑳寺 興禅寺<境内東西八間、南北十五間四分、面積百二十三坪、村ノ北ニアリ、禅宗、本郡餘部下村雲門寺末、創立年月開基僧名詳ナラス、尓後衰廃セシヲ天正元年癸酉、僧椿庭再建ス>

㉑物産 大豆<三石>、小豆<七斗五升>、菜種<二石五斗>、桐実<五十石>、已上市場村ニ輸出ス

㉒民業 男<農業七十五戸、採薪業四戸>、女<各夫業ニ従フ>

 ⑲多門院は神社が多く、八幡(荒倉の若宮八幡)、山(黒部)、天蔵(財木)、多聞神社の四社があり、特に天蔵神社には、風土記の高橋郷の由来が記されている。⑳寺院は天正元年(1573)に再建された禅宗興禅寺がある。堂奥には、天神神社・八幡神社の他に、多門院と一緒に祭祀を行う山口社があり、同じく風土記の祖母祠天道日女命の話が記される。多門院にはこのほか、明治16年寺社明細帳に、地蔵堂が字多門・荒倉・財木・ヲイ川の4カ所にあり、興禅寺受持の毘沙門堂が字大イ川にありますが、これらの仏堂は掲載されていない。また、堂奥には、生徒男53人、女13人の人民共立小学校があったが、明治11年に廃校になっている。この学校は、堂奥校として最初民家を借りて開校し、堂奥・多門院・溝尻の生徒が通っていた(『倉梯村史』)。

 また堂奥の「古跡」として「御城山」が「古跡墟」として、昔矢野備後守の拠点であり、現在もわずかに形跡を残しているとある。これはおそらく舞鶴市域最大の中世城郭「溝尻城」と思われる(『舞鶴の山城』)。㉑物産は両村ほぼ同じで、多門院は大豆・小豆・菜種・桐実の4種を市場村へ輸出し、堂奥は大豆・小豆・菜種・薪で、村内需要が半分、舞鶴への輸出が半分とある。㉒生業も両村ともに農業が多く、多門院は一部採薪、堂奥は採桑・養蚕業が多く、猟を兼ねる家も数軒存在する。

出典 「加佐郡村誌」同32~35、京都府庁文書、京都府立京都学・歴彩館所蔵

参考:東昇「幕末・明治期の加佐郡における桐実生産」『京都の産物ー献上・名物・土産』臨川書店、2023

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