なかやまじょう
・舞鶴市字中山小字一ノ丸他
・遺構---曲輪、堀切、土塁、虎口 ・占地---山頂
・標高---65m ・比高---60m ・遺跡地図番号---63
この城は由良川にかかる八雲橋の東詰の山頂にある。城館は打越峠から北に延びる尾根上にあるが、この打越峠の下を北近畿タンゴ鉄道宮津線が通っており、またかつての宮津街道も中山を通っており、今も昔も西舞鶴-由良・神崎間の交通の要所となっている。周囲は西には由良川が流れ、北・東は湿地帯であったと考えられる。由良川の河川交通を管理する城館として注目される。
中山城は、南北に延びた尾根を十本の堀切で遮断し、十四ヶ所以上もの曲輪数を有する大規模な遺構である。しかし、曲輪の構成に連続性がなく、縄張にまとまりがないのがこの遺構の特徴である。
南の曲輪からは由良川側の西斜面にそって四段の曲輪があることから、城主の河川交通への関与を示唆し、また、中央部の曲輪は北麓の集落へ道がつながっている事から、集落との関係も考えられる。
城主については様々な説がある。まず、「一色軍記」や一部の近世地誌類にある沼田幸兵衛である。1579(天正7)年、一色義道が細川藤孝勢に敗れて八田城を引き払い、旗下の沼田幸兵衛が守る中山城に籠城するが、沼田はにわかに心変わりをして細川方に内通して主君を裏切り、義道は自害したとされている。沼田幸兵衛はのち細川の家臣となったと伝える。しかしこの説には傍証がなく「一色軍記」も信頼性に欠けると考えられている。また、細川家の記録である「綿考輯録」は、中山城主を一色方の貫幸兵衛とし、「山中」(中山)で激戦があり一色義道が戦死した事は記しているが、裏切り云々には触れていない。一方、「嶽家文書」や他の地誌類は城主を一色左京太夫としている。
信頼性の高い史料である若狭の「白井家文書」によると、1520(永正17)年に白井清胤が主君の武田元信から水間村の支配を命じられており、さらに1538(天文7)年には水間村で戦いがあり、白井光胤が武田宗勝から軍功を賞されたことが明らかである。京都府地誌によると中山村と称したのは天正年間以後であるので、水間の合戦でも中山城が使われたことは想像に難くない。
「綿考輯録」によると、細川藤孝は一色氏滅亡後の中山城に家臣の沼田延元を配置していたが、田辺籠城戦に際して自焼させたという。平成20年の京都府による発掘でも、焼土が確認された。