舞鶴の山城 若狭・丹後の境目は由良川

 志高城は宮津と若狭を結ぶ街道の途中に位置し、由良川の渡し場のあった所で、縄張は階段状に切岸を中心とした曲輪の構成が一部にみられ、丹後の山城に多いパターンである。一色氏と武田氏の勢力ラインは、由良川を境としていた可能性も考えられる。

 また、中山城は由良川下流の防禦に適した地形に構築されており、由良や神崎から西舞鶴へ侵入しようとすると、中山城のある打越峠を通行するしかない。中山城の遺構は、堀切によって5区画に区分されており、加佐郡では他にみられない縄張である。この縄張には、敵の方向にあわせて曲輪を使用できる長所がある。特に由良川を挟んでの合戦では重要な城館である。北と東は湿地帯となり、西は由良川が流れ、南が打越峠へ続く細尾根となる。中山城は水城としての機能が大であった可能性がある。1538(天文7)年の水間村の合戦では中心となった城館で、一色氏、武田氏、反武田衆の争奪戦が考えられる。

 若狭・丹後の境目は、本来は、現在の県境である吉坂峠を中心に南北に延びるラインであるが、争乱の結果、若狭の勢力は由良川あたりにまで及んでいた可能性が強い。それは、志高城や中山城は縄張からみて由良川流域の拠点となったと考えられること。由良浜や水間の合戦の記録や伝承がのこること。丹波桐村氏が若狭武田氏と連絡をとっていたらしいことなどから推察できる。この若狭・丹後の攻防ラインの移動こそが、1500年代前半の5~60年間、舞鶴の境目領域として度重なる戦闘にさいなまれた事を表している。(た)

関連する歴史の人物

関連する人物はいません。

関連するコンテンツ