文化10年(1813)田辺藩が領内全村に調査させた、「作方年中行事」を比較すると、同じ日でも違いがみえる。以下は、各村の正月11日の行事を、東から西へ9ヵ村分比較した。
・成生 作初メ庄屋へ寄合初メ年内之村内定事ヲ致ス、大神宮講致ス
・野原 朝大神宮講ヲ致ス、女ハ神江備し籾挽く、別是産初と云ふ、但シ田畑共少シ起シ菜ヲ植ル、天気なれハ肥シ出シ木樵り麦之中打是ゟ作方致ス
・大山 朝家持分田を打初、茶を植初、女分神江備シ籾を引、則庭初と云ふ并に太神宮講致ス
・余部上 早朝為作り初藁三本植、是早稲・中稲・晩稲与致、女にわ初致、いかし・稗煎臼ニ而引、昼給申候、昼より庄屋所へ寄合ニ参り、其余ハ薪樵、雨天ニ而ハ藁仕事、女ハ木綿糸引
・青井 十日 同断今夜御宮ニ而右之子供作リ初メと申て小哥をうたいことふきを祝申候 十一日 休日 こき初はつたひ初ニて祝申候昼ハ伊勢講相勤作リ初仕候
・久田美 作初メ与して菜三本うへ、是早田・中田・晩稲ニいたし、休日、昼より庄屋所へ初寄会ニ参り候事
・大川 おこし初、寄合初庄屋所ニ而村中盃致候事、但シ半日休日
・地頭 氏神祭礼
・桑飼下 肥持、雨天成ハ藁仕事、女ハ木綿糸引
成生から大川までの村では、作初め、産初、庭初、おこし初など、表現は違うが、作物を植えはじめる行事があった。これは「作りぞめ」という、その年の農産物の豊作を祈る行事で、行永では屋敷地内の畑にカブラの早生・中生・晩生を各1本づつ植えて下肥のやり初めをしたという。江戸時代でも、余部上の初藁を3本、早稲・中稲・晩稲、久田美の菜3本を早田・中田・晩稲と植えるのと共通している。また青井では、前日の夜御宮で子供が小歌を歌い寿を祝うことが作り初めとある。
この他、庄屋所への初寄合が、成生・餘部上・久田美・大川と各地で共通しており、農業の開始と同時に、村の仕事も始まるという感覚があったのかもしれない。また、一方で地頭は氏神の祭礼、桑飼下は一般的な農作業となっており、正月11日は領内全体で統一的な行事であったとはいえない。
参考:『舞鶴市史 各節編』1975 https://doi.org/10.11501/9573284
出典 成生-成生漁協文書A-27-3、野原-舞鶴郷土資料館所蔵、大山-岡山家文書、餘部上-井上奥本家文書、久田美・大川・地頭・桑飼下-上野家文書(京都府立京都学・歴彩館所蔵)