京極高知の年表

西暦和暦出来事関連出典
1591天正19年辛卯423京極高知、秀吉へ仕え、近江国蒲生郡内に高5000石の地を与えられる上678寛政重修諸家譜
1593文禄2年癸巳1013京極高知、外舅毛利秀政の遺領、信濃国伊那郡内の高6万石余を継ぎ、飯田の城主となる上678寛政重修諸家譜
1595文禄4年乙未419京極高知、信濃国で加増され、都合知行地高10万石となる これより先、秀吉に羽柴の称号を与えられる上678寛政重修諸家譜
1600慶長5年庚子823京極高知、これより先、会津征伐に出陣し、途中、下野国小山から反転西上、この日、美濃国岐阜城攻略に加わる上678寛政重修諸家譜
1600慶長5年庚子915京極高知、関ヶ原の戦いで戦功を立てる上678 
1600慶長5年庚子11 京極高知、関ヶ原の戦功により加増、信濃国伊那郡飯田から丹後国へ国替となる上679 
1600慶長5年庚子1215京極高知、丹後国を忠興家臣を通して受け取る上673 
1600慶長5年庚子1217高知、宗雲寺に禁制を下す上708宗雲寺文書
1600慶長5年庚子1225高知、宗雲寺に禁制を下す智恩寺文殊堂に禁制を下す上708智恩寺文書
1601慶長6年辛丑3 高知、加佐郡田辺に入城する(写真16)上679 
1601慶長6年辛丑529高知、智恩寺に同寺領を安堵する上708智恩寺文書
1601慶長6年辛丑825高知、桂林寺に同寺領を安堵する上708桂林寺文書
1601慶長6年辛丑825高知、宗雲寺に同寺領を安堵する上708宗雲寺文書
1601慶長6年辛丑閏1116高知、智恩寺に同寺領九世戸文殊分を安堵する上708智恩寺文書
1601慶長6年辛丑11 高知、成相寺境内に禁制を下す上708 
1601慶長6年辛丑11 高知、金剛心院に禁制を下す上708 
1602慶長7年壬寅926高知、横田清左衛門へ与謝郡下宮津の内において、山林・竹木・海川を除き高600石の地を宛行う上706 
1602慶長7年壬寅123高知、金剛院に同寺領を安堵する上708 
1602慶長7年壬寅123高知、龍勝寺に同寺領を安堵する上708龍勝寺文書
1602慶長7年壬寅123高知、室尾谷観音寺に同寺領を安堵する上708室尾谷観音寺文書
1606慶長11年丙午119高知、江戸城修築を仰せつけられる上696徳川実紀
1611慶長16年辛亥3 京極高三、父高知に連れられ京都二条城において、初めて徳川家康・秀忠へ謁する 時に5歳上703 
1611慶長16年辛亥3 高知、内裏造営を命じられる上696徳川実紀
1612慶長17年壬子928高知、この年、四男万作を江戸へ出して人質とする 7月万作没するにより、この日、養子高通をこれに代える上696寛政重修諸家譜
史料綜覧
1612慶長17年壬子1212高知、禁裏・仙洞造営において、仙洞築地の分役を務める上696徳川実紀
1614慶長19年甲寅216高知、駿府へ参って家康に謁する 徳川実紀
1614慶長19年甲寅3 高知、江戸城修築のことをうけたまわり、駿府のち江戸に赴く上696徳川実紀
1614慶長19年甲寅107高知、京極忠高・森忠政・田中忠政らと江戸城修築終わり駿府へ参って家康に謁する 家康、速やかに帰国して出陣の用意を致すべしと仰せつける 徳川実紀
1614慶長19年甲寅11 高知、大坂の役冬の陣において、大和口の先手をうけたまわる上696寛政重修諸家譜
1615慶長20年
(元和元年)乙卯
5 高知、大坂の役夏の陣において、京口の先鋒となりその出口に陣取る上696寛政重修諸家譜
1619元和5年己未9 将軍秀忠、在京中伏見城において阿部正次ほかに加増転封を仰せつけたが、高知へも、多年の忠勤を勧賞し加封すべきところ、欠地がないのでしばらく延滞する旨を、本多正純より伝えさす 徳川実紀
1620元和6年庚申118高知、大坂城修築において玉造口より大手門までと、京橋より靑屋口までの分役を仰せつけられる上696徳川実紀
1622元和8年壬戌3 高知、本国居城において病にかかるにより、嫡男高広、看侍の暇たまわり帰国する この時、来国光の刀および馬を下される 徳川実記
1622元和8年壬戌812高知没する のち遺領は嫡子高広が高7万8175石を相続し、庶子高三に高3万5000石、養子高通に高1万石が分与されて、ここに宮津藩・田辺藩・峰山藩が成立する上701 

関連する歴史の人物

関連するコンテンツ