牧野親成の年表

西暦和暦出来事関連出典
1633寛永10年癸酉117牧野親成・岡田重治、将軍家光の近習に召され、御膳のことを司らしめられる徳川実紀
1633寛永10年癸酉89近習牧野親成・岡田重治、共に歩行頭(徒頭)となる 親成、上総国高根村において禄高1000石の地を給される上719徳川実紀
(牧野家)御系図大略
1642寛永19年壬午219徒頭牧野親成、浅草観音堂出火にあたり、御宮へ一番にはせつけ勅額をはじめ神宝を取り出す 徳川実紀
1642寛永19年壬午319歩行頭牧野親成、書院番頭となって、久世広之と共に同じく御側に奉仕すべしとの仰せくだされる上719徳川実紀
1644寛永21年
(正保元年)甲申
318書院番頭牧野親成、高4000石加増され、父信成の旧領武蔵国石戸において禄高5000石の地を給される上719徳川実紀
御系図大略
1645正保2年乙酉423牧野信成・親成・冨成、徳川竹千代(家綱)の加冠の式において、各役を務める 徳川実紀
1646正保3年丙戌66徳川綱吉、山王社へ参詣の帰途、牧野信成の第に立ち寄る 親成・冨成ら時服をたまわる 徳川実紀
1647正保4年丁亥1126牧野親成、父信成の致仕(正保4・11・26)により襲封して、高1万7000石の下総国関宿藩主となる上719徳川実紀
1648慶安元年戊子413牧野親成、将軍家光の日光社参に供奉する 徳川実紀
1648慶安元年戊子618御側牧野親成・久世広之・内田正信および小姓組番頭斉藤三友、この日より後、江戸城殿中の諸士勤番の勤怠を巡察して、直接に将軍へ申し上ぐべしと命じられる 徳川実紀
1651慶安4年辛卯313将軍家光、諸老臣ならびに御側久世広之・牧野親成らを病床へ召して、閑話に侍らせる 徳川実紀
1651慶安4年辛卯422酒井忠勝・奏者番朽木稙綱・御側出頭役兼書院番役牧野親成ら9人、家光の霊柩を日光に供奉、落髪して法会の終るまで仕うべき旨命じられる 徳川実紀
1651慶安4年辛卯429家光に霊柩日光山に着く この行列において、牧野親成、2町ほど先立って進む 徳川実紀
1652慶安5年
(承応元年)壬辰
42御側出頭人牧野親成、御側久世広之、寺社奉行安藤重長・松平勝隆・太田資宗ら、前将軍家光小祥の法会のことにあずかるべしと仰せつけられる 徳川実紀
1652慶安5年
(承応元年)壬辰
811御側久世広之・牧野親成、御家人宅地査検を命じられる 徳川実紀
1653承応2年癸巳21御側兼番頭久世広之・牧野親成、奏者番朽木稙綱ら18人、前将軍大祥の忌にあずかることを命じられる 徳川実紀
1653承応2年癸巳315酒井忠勝・奏者番朽木稙綱・御側兼番頭牧野親成ら44人、日光山法会のことにあずかるべしと仰せつけられ、暇をたまわる 徳川実紀
1653承応2年癸巳918御側兼小姓組番頭久世広之・御側出頭兼書院番頭牧野親成・小姓組番頭内藤忠由・土屋数直ら、各番頭を免じられ、昼夜将軍家綱へ伺候、夜は一人ずつ御次に宿直するよう仰せつけられる上719徳川実紀
1653承応2年癸巳1120井伊直孝・酒井忠清・御側牧野親成ら、将軍の寛永寺家光霊廟参詣に供奉する 徳川実紀
1654承応3年甲午110御側出頭牧野親成、日光山本坊の火災につき、寛永寺において門跡公海を尋問する 徳川実紀
1654承応3年甲午58御側牧野親成・久世広之、城溝浚利の巡察をする 徳川実紀
1654承応3年甲午1128御側出頭牧野親成、京都所司代を命じられる 板倉重宗老衰ゆえに差し添えて京都のこと司るべしと仰せつけられ、京辺の地、河内国高安郡において高1万石加増される上720徳川実紀
1654承応3年甲午127京都所司代牧野親成、上洛の前にまず就封(帰城)の暇をたまわる 徳川実紀
1655承応4年
(明暦元年)乙未
111幕府、禁中・新院のことは、板倉重宗・牧野親成の指揮をうくべき旨令する 徳川実紀
1655承応4年
(明暦元年)乙未
119牧野冨成、兄親成に男子なく、その養子となる上720徳川実紀
1655承応4年
(明暦元年)乙未
23京都所司代牧野親成の弟冨成、兄の養子に命じられたことを謝し奉る 徳川実紀
1655承応4年
(明暦元年)乙未
24牧野親成、上洛の暇を下され侍従に任官、来国光の刀ならびに馬をたまわる 徳川実紀
1655承応4年
(明暦元年)乙未
26将軍家綱、京職(所司代)牧野親成に京都のことなどを面命して、手ずから帯織島紬ならびに羽織を給する 徳川実紀
1655承応4年
(明暦元年)乙未
622京都所司代牧野親成、参府して将軍に謁する 徳川実紀
1655承応4年
(明暦元年)乙未
81京都所司代牧野親成、日光山参拝の暇をたまわる(8・13日光山より帰謁) 徳川実紀
1655承応4年
(明暦元年)乙未
826京都所司代牧野親成、与力50騎・同心100人を付属させられる 徳川実紀
1655承応4年
(明暦元年)乙未
915京職牧野親成、京都より出す奉書の連署すべしと仰せつけられる 徳川実紀
1655承応4年
(明暦元年)乙未
108牧野親成、将軍家綱の朝鮮通信使引見において、江戸城大広間西の縁に束帯して着座する 徳川実紀
1655承応4年
(明暦元年)乙未
1012京職牧野親成、上洛の暇をたまわる 徳川実紀
1655承応4年
(明暦元年)乙未
1016牧野親成、上洛するによって、将軍手ずから八丈織の帯・羽織をたまわる 徳川実紀
1656明暦2年丙申215京職牧野親成、従四位下に昇進する 徳川実紀
1656明暦2年丙申76京都所司代牧野親成、参府して拝謁する 徳川実紀
1656明暦2年丙申85京都所司代牧野親成、板倉重宗が下総国関宿へ転封となり、重宗の領した京辺の地、摂津国嶋上郡・嶋下郡および河内国石川郡・古市郡内において高2万2600石をたまわり、都合知行地高3万2600石となる上720徳川実紀
1656明暦2年丙申911京職牧野親成、日光山参拝のお許しあって暇をたまわる(9・21日光山より帰謁) 徳川実紀
1656明暦2年丙申1116京都所司代牧野親成、赴任の暇下される その子冨成、小姓を許され表奉公(雁間詰)を仰せつけられる上720徳川実紀
1656明暦2年丙申1129将軍家綱、牧野親成に手ずから羽織を給し、上洛の労を慰する 徳川実紀
1659万治2年己亥829京都所司代牧野親成、参府して拝謁する 徳川実紀
1660万治3年庚子29将軍家綱、酒井忠清・酒井忠勝・松平信綱・阿部忠秋・稲葉正則・牧野親成を広座番長囲炉の間に召して供膳、御手前の茶を給する 徳川実紀
1660万治3年庚子35京都所司代牧野親成、上洛の暇をたまわる 徳川実紀
1663寛文3年癸卯63京都所司代牧野親成、霊元天皇即位(寛文3・1・26)に伴う少将昇進の詔を固辞する 徳川実紀
1663寛文3年癸卯119京職牧野親成大病により、子冨成、看侍の暇をたまわる また、この春、老臣が府に近いところでたまわった采地へ、代るがわるまかるべしと仰せられる 徳川実紀
1664寛文4年甲辰31牧野冨成、これより先、父親成看侍のため京に登り、この日、帰謁する 徳川実紀
1664寛文4年甲辰1128京職牧野親成、参府して将軍に糸造りの鎧、御台所に鏡2面・歌碑一匣を献上する 徳川実紀
1665寛文5年乙巳113京都所司代牧野親成、日光山参拝の暇をたまわる(1・28日光山より帰謁) 徳川実紀
1665寛文5年乙巳219京都所司代牧野親成、近年病の故に職を辞するといえども、なおしばらく許され難い旨面命せられる 徳川実紀
1665寛文5年乙巳328京職牧野親成、帰洛すべしとして、将軍より道阿弥肩衝の茶入を下される 徳川実紀
1665寛文5年乙巳68京職牧野親成、上洛の暇をたまわる 徳川実紀
1666寛文6年丙午428京職牧野親成腫物を患うにより、子冨成、看侍の暇をたまわる 徳川実紀
1666寛文6年丙午59幕府、京職牧野親成の請いにより、医員杉本元政を上洛させ治療せしめる 徳川実紀
1667寛文7年丁未閏27小姓牧野冨成、これより先、父親成の病看侍のため上洛、親成平癒により、この日、帰謁、将軍へ親成より轡10口、冨成より鷹の鈴100、御台所へ宝鏡1・香炉2を献上する 徳川実紀
1668寛文8年戊申416京都所司代牧野親成、参謁し将軍に的矢10・手轡10口、御台所に義経記1部・夏目2・張子5を献上する 徳川実紀
1668寛文8年戊申516京都所司代牧野親成、近年多病により職を許される 新職命じられるまでは板倉重矩に所司代のことを摂らしめられる上720徳川実紀
1668寛文8年戊申523牧野親成、高2400石を加増、丹後国加佐郡の内において高3万5000石をもって所替仰せつけられ、田辺藩牧野氏初代藩主となる また、田辺はもと城地なれば城築くべしと仰せつけられる上720徳川実紀
1668寛文8年戊申74牧野親成、上洛の暇をたまわり、日光山へも参拝すべしと面命ある 徳川実紀
1668寛文8年戊申815親成、京極高盛より田辺城を受け取る上720御系図大略
1669寛文9年己酉67親成、田辺城に入る上720御系図大略
1669寛文9年己酉923親成、田辺城の普請願を幕府に差し出す上783 
1670寛文10年庚戌319親成、参勤着府する 徳川実紀
1673寛文13年
(延宝元年)癸丑
929親成、致仕の請いを許される 日光参詣ののち落髪、哲山と称する上720徳川実紀
1673寛文13年
(延宝元年)癸丑
929牧野冨成、父親成の致仕により襲封、牧野氏第2代藩主となる上720徳川実紀
「舞鶴市史年表」より

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