西暦 | 和暦 | 月 | 日 | 出来事 | 関連 | 出典 |
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1641 | 寛永18年辛巳 | 10 | 3 | 牧野信成七男冨成・八男直成ら17人、召し出されて徳川竹千代(家綱)の小姓を命じられる | 上720 | 徳川実紀 |
1645 | 正保2年乙酉 | 4 | 23 | 牧野信成・親成・冨成、徳川竹千代(家綱)の加冠の式において、各役を務める | 徳川実紀 | |
1646 | 正保3年丙戌 | 6 | 6 | 徳川綱吉、山王社へ参詣の帰途、牧野信成の第に立ち寄る 親成・冨成ら時服をたまわる | 徳川実紀 | |
1650 | 慶安3年庚寅 | 9 | 9 | 牧野冨成、徳川家綱の傳役にその職掌を分ち命じられたとき、櫛笥のことを司るべしと仰せつけられる | 徳川実紀 | |
1655 | 承応4年 (明暦元年)乙未 | 1 | 19 | 牧野冨成、兄親成に男子なく、その養子となる | 上720 | 徳川実紀 |
1655 | 承応4年 (明暦元年)乙未 | 2 | 3 | 京都所司代牧野親成の弟冨成、兄の養子に命じられたことを謝し奉る | 徳川実紀 | |
1656 | 明暦2年丙申 | 11 | 16 | 京都所司代牧野親成、赴任の暇下される その子冨成、小姓を許され表奉公(雁間詰)を仰せつけられる | 上720 | 徳川実紀 |
1663 | 寛文3年癸卯 | 11 | 9 | 京職牧野親成大病により、子冨成、看侍の暇をたまわる また、この春、老臣が府に近いところでたまわった采地へ、代るがわるまかるべしと仰せられる | 徳川実紀 | |
1664 | 寛文4年甲辰 | 3 | 1 | 牧野冨成、これより先、父親成看侍のため京に登り、この日、帰謁する | 徳川実紀 | |
1666 | 寛文6年丙午 | 4 | 28 | 京職牧野親成腫物を患うにより、子冨成、看侍の暇をたまわる | 徳川実紀 | |
1667 | 寛文7年丁未 | 閏2 | 7 | 小姓牧野冨成、これより先、父親成の病看侍のため上洛、親成平癒により、この日、帰謁、将軍へ親成より轡10口、冨成より鷹の鈴100、御台所へ宝鏡1・香炉2を献上する | 徳川実紀 | |
1673 | 寛文13年 (延宝元年)癸丑 | 9 | 29 | 牧野冨成、父親成の致仕により襲封、牧野氏第2代藩主となる | 上720 | 徳川実紀 |
1678 | 延宝6年戊午 | 5 | 28 | 牧野英成、伯父冨成に男子なく、その養子となる | 上721 | 御系図大略 |
1679 | 延宝7年己未 | 4 | 12 | 畠山義里、日光山御宮代参、牧野冨成、祭礼奉行、朽木稙昌、霊廟代参をそれぞれ命じられ暇を下される | 上720 | 徳川実紀 |
1681 | 延宝9年 (天和元年)辛酉 | 8 | 16 | 牧野冨成・大久保忠増・酒井忠隆、共に奏者番へ加えられる | 上720 | 徳川実紀 |
1682 | 天和2年壬戌 | 3 | 8 | 冨成、寛永寺における前将軍家綱の大祥の法会(4・2)において、屏風坂の警衙を仰せつけられる | 徳川実紀 | |
1684 | 貞享元年甲子 | 7 | 18 | 奏者番牧野冨成、将軍綱吉が諸家に領知判物を授与する折、御朱印改めのことを仰せつけられる | 上720 | 徳川実紀 |
1684 | 貞享元年甲子 | 11 | 26 | 冨成、判物御朱印御用を務め、その褒として備前近景の刀をたまわる | 徳川実紀 | |
1691 | 元禄4年辛未 | 8 | 22 | 冨成、城中において、小橋五郎兵衛の親孝行を賞して鳥目三貫文、親源左衛門へ蔵米2俵を給する その折、城内で演じられていた能を見させる | 上1209 | 田辺孝子伝 |
1692 | 元禄5年壬申 | 10 | 29 | 松平忠雄・本多康命・牧野英成・森川俊胤、共に奥詰となる | 上721 | 徳川実紀 |
1693 | 元禄6年癸酉 | 7 | 16 | 牧野英成、父冨成が田辺において重病のため、看侍の暇をたまわる | 徳川実紀 | |
1693 | 元禄6年癸酉 | 10 | 2 | 牧野英成、父冨成の死去(元禄6・8・6)により襲封、牧野氏第3代藩主となる | 上721 | 徳川実紀 |