X、#太郎左衛門のつぶやき、で記した農作業は、余部上村の「作方年中行事」(井上奥本家文書)を基にしている。太郎左衛門は、余部上村庄屋、文化10年(1813)7月に「作方年中行事」を藩に提出した。余部上村を中心に、西から久田美・青井・大山・成生・野原村の行事と比較し参考とする。また、旧暦なので約1ヶ月遅れの記事で調整した。
10月やっと稲刈りが終わった。
10月2日 10月も稲苅り、年貢の収納は続く。この時分から女は朝、樫やほうそ(コナラ)のじざい(どんぐり)を拾っておき、天気の時に干す。唐臼ではたき、皮を取り集め水にさらし、ゆりこ餅に混ぜて食べる。ゆりこ餅は屑米で作った餅で越後、信濃でも食べるようだ。
10月6日 10月に入っても稲苅、晩方の干稲入込、上納米の準備、年貢収納は続く。亥の子の日には春と同じように、粟餅・ゆりこ餅を作り田の神へ備える。
10月10日 8日天気であれば大豆や小豆のかち(脱穀)を行う。昨日も今日も稲苅、晩方の干稲の取り込み、上納米の準備、年貢の収納は続く。また、今日は菜種の中打ちもあった。
成生では年貢収納と同時に漁もあり、昼夜をわけず働き通し、鰤網も入れる時期とのこと。殿様から将軍に献上する有名な丹後鰤も成生・田井で捕れる。
10月14日 11日から稲苅、綿取、上納米作業に加えて、7月下旬に蒔いた蕎麦の苅入がはじまり、明日まで続く。城下でも蕎麦切屋があってソバを食べることができる。料理仕出しと同じく、軒数に定めがあり店を新しく出せない。閉店のとき、町役人へ届け出が必要とのことだ
10月19日 17日におよそ稲苅が終わる。8月8日の彼岸頃から始めたので、約2ヶ月かかった。稲苅は終わったが、晩方の干稲取り込み・上納米の作業や収納は続く。昨日から麦の中打ち、今日は水田鋤きがはじまった。
10月24日 今日は半日休み、麦の中打、藁の片付けや諸作の中打がはじまり、晩方の干稲の取り込み・上納米の作業や収納は続く。青井では24日は半日休みで大川参りと愛宕講、野原では、愛宕参り、愛宕講を行い、例年宮の屋根葺きをするとのことだ。
10月27日 おおむね、稲扱いも終わって、稲木の下に落ちている籾を拾ったり、掃除をして、稲木の片付けをする。その後の田を鋤いて、菜種を植える。干し稲は終わったので、晩方も干した蕎麦を入れ込む。最後の稲苅が17日、干し稲入れ込みが25日だったので、8日ほど干して乾燥させる。
京都府立大学文化情報研究室・舞鶴地方史研究会「翻刻 作方年中行事・山論・献立・日露戦争」 京都府立大学文化遺産叢書16『舞鶴の地域連携と世代間交流 井上奥本家文書調査報告』160(1)-139(22)頁、2019
十月
朔日 男女共稲苅、或牛之草苅、女ハ綿取
二日 御収納相勤申候、男女共稲苅、或牛之草苅
一此時分ゟ女ハ朝樫木しさい、ほうそじざいひろい置、天気ニ干、からうすニ而はたき、かわ取囲置、水ニ而さらし、ゆりこ餅交候
三日 男女共稲苅、女ハ綿取
四日 右同断
五日 右同断、晩方に干稲入込
六日 御収納相勤申候、男女共稲苅、又女御上納米致、晩方に干稲入込
一亥之子日ハ春之通、粟餅・ゆりこ餅致、田神江備江申候
七日 稲苅、こへ持、女御上納米致
八日 天気ニ而ハ大豆、小豆かち
九日 こへ持、或男女稲苅、晩方干稲入込
十日 御収納相勤残り菜種中打、或稲苅、女御上納米致、晩方に干稲入込
十一日 稲苅、女綿取御上納米致、男女蕎麦かり
十二日 右同断
十三日 右同断
十四日 御収納相勤申候、男女稲苅
十五日 稲苅、男女とも蕎麦苅
十六日 男女稲苅
十七日 右同断、晩方に干稲入込此時分に稲苅相済申候
十八日 御収納相勤申候、こえもち、麦之中打、女御上納米致、晩方に干稲入込
十九日 「参納与申」(付箋)、麦中打、こへ持、水田すき、女御上納米致、晩方に干稲入
廿日 右同断
廿一日 右同断
廿二日 御収納相勤申候残り、麦之中打、藁片付、女御上米致、晩方に干稲入込
廿三日 諸作中打、藁片付、女御上納米致、晩方に干稲入込
廿四日 半日休、麦之中打、女御上納米致、又ハ男藁片付、晩方に干稲入込
廿五日 麦中打、藁片付、女ハ御上納致、晩方に干稲入込
廿六日 御収納相勤残り、諸作中打、藁片付、又女御上納米致、晩方に干蕎麦入込
一此時分ゟ稲扱相済申候
廿七日 諸作中打、女蕎麦かち、或稲木下落籾等掃除致、夫ゟ男ハ稲木片付、あとをすき、菜種植拵
廿八日 右同断
廿九日 稲木あとに菜種植、こゑもち、女ハ菜種草取
晦日 御収納相勤残り、綿木(木綿)引、中打、又ハこへ打、女綿木引、草取