余部上村の「作方年中行事」3月

X、#太郎左衛門のつぶやき、で記した農作業は、余部上村の「作方年中行事」(井上奥本家文書)を基にしている。太郎左衛門は、余部上村庄屋、文化10年(1813)7月に「作方年中行事」を藩に提出した。余部上村を中心に、西から久田美・青井・大山・成生・野原村の行事と比較し参考とする。

3月5日
3日は節句で休日、早朝は氏神へ参り、村の中で各自礼を行った。昨日は麦の土かい、諸作の草取り、ゑもき取り、雨の場合は薪取りだ。明日から下人へ洗濯休として、3日間親の里へ帰っていた。

3月9日
今日から、いろいろな作物の土かい、水田を打つ。わらび取りや柿の葉を取ってゆで干して囲っておく。年内の麦交雑飯にする。そして、土用時分より、追い追い里いもを植付ける。また、土用入の前日に菜種他を揃える。

3月14日
今日から、ゑもきやりようぶを取る。行永の手まり歌に、「妹こっち向け、物言って聞かしょ、われの世帯はそれではならぬ、粉米3合に、粟2合5勺、それで足らねば、深山りょうぶ、七しぼり、七しぼり」というのがある。砕け米に粟とリョウブの葉をまぜるということだが、但馬にも同じような歌があるとのことだ。

3月16日
今日は「御ことう」といって休日、粟餅・ゑもき餅を作って神様へ供える。大川や久田美でも「おこと」という休日だが18日とのことだ。
「后土」という字をあてる場合もあり、田中の方では「こと餅を食べないと力が出ない」ともいう。

3月22日
今日は、粟、きびや稗を蒔く。20日頃から、他にも畑に大角豆、大豆を植え、のうらくを蒔く。わらびやぜんまい取りも続く。春はいろいろ収穫できる。
久田美でも、土用あけには、ぶんど豆とのうらくを蒔くとのことだ。

3月26日
昨日から草むしりして、苗代の肥にするので、持ち帰って苗代へ打ちこんだ。その他、大麦をつき、牛の草苅りもした。
苗代は何度もよく掻きならし、床に草一本もないようにして魚の粉を一畝一升の積りでいれて種を蒔くと、若狭の『農業蒙訓』で書かれている。

3月28日
昨日から、水田の中をこなし、その下肥に藁か蕎麦がらを混ぜたものを使う。17日に池につけた稲の種を今日上げていく。明日から苗代をならして種まきをする。
成生では、土用の入を見定めて種籾を改め、土用の真ん中に川ヘつける。種は18日前後で川より上げる。

京都府立大学文化情報研究室・舞鶴地方史研究会「翻刻 作方年中行事・山論・献立・日露戦争」 京都府立大学文化遺産叢書16『舞鶴の地域連携と世代間交流 井上奥本家文書調査報告』160(1)-139(22)頁、2019

三月
朔日 右同断
二日 右同断
三日 休日、節句、早朝氏神参、村方礼致し
四日 麦土かい、女ハ諸作草取、ゑもき取、雨天ニハ男女薪樵
五日 右同断
六日 こへ持、麦土かい、女草取、雨天ニ而ハ男女薪樵、女ゑもき取、此時分ニ下人男女洗濯休ニ、三日之間親里ヘ遣し申候
七日 右同断
八日 右同断
一土用時分より目立候得ハ、追々里いも植付仕候、且又土用入之前日ニ、なたね他揃仕候九日 諸作土かい、又ハ水田打、女わらび取、柿之葉取、是ゆで干て囲置、年内麦交雑飯致し
十日 右同断
十一日 右同断
十二日 右同断
十三日 右同断
十四日 こへ持、水田打、又ハ薪持、女ハゑもき取、りよふ取
十五日 右同断
十六日 休日、此日は御ことうと申、粟餅・ゑもき餅致作、神江備江申候
十七日 種籾揃池へつケ、又ハ水田打、女ハ薪樵、りうぶ取
十八日 水田中こなし、女わらび・ぜんまい取、切干、囲置、年内麦飯に交申候
十九日 右同断
廿日 男女綿蒔、或大角豆植、畑に大豆植、のうらくまき、又こえもち、女わらび取、或ぜんまい取
廿一日 右同断
廿二日 粟、きび或ハ稗まき、女共ハまきうわ、こへおき、又ハ綿蒔、或ハ水田中こなし致し
廿三日 右同断
廿四日 半日休、右同断
廿五日 男女草むしり、苗代肥にいたし帰りて苗代打、女ハ大麦つき、又牛草苅
廿六日 右同断
廿七日 水田中こなし、下肥に藁或ハ蕎麦からひろ出し、女わらひ・ぜんまい取、又ハ牛草苅
廿八日 右同断、且又池ゟ種上ゲ致し
廿九日 苗代ならし、種まき拵、或ハ水田岸おろし、女わらび又ハぜんまい取、又ハ牛之草苅
晦日 右同断

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